鎌倉大地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/10 10:01 UTC 版)
地震の記録が登場する文献等
『鎌倉大日記』には、正応5年4月12日と正応6年4月12日の両方の日付の地震が記されているが、正応5年の記事は年号の誤りと考えられている[8]。一方、『親玄僧正日記』(『醍醐寺日記』)は、地震の日付を正応6年4月13日卯刻(午前6時頃)、『北條九代記』は、正応6年4月13日寅刻(午前4時頃)としている[9]。当時は一日の境界を夜明け前とすることが多く厳密でなかったため、今日では「十三日午前4時」だが、当時は「十二日夜寅刻」といった表記もありうる[10]。
備考
- 鎌倉建長寺は倒壊後に炎上、由比ヶ浜の鳥居付近では140人もの死体が転がり、幾千もの死者が出たと『親玄僧正日記』に記される。『武家年代記裏書』には大慈寺が倒壊したことが記される。
- 峰岸純夫は『中世 災害・戦乱の社会史』15頁において、直下型地震で極浅、震源地は相模陸地の丹沢付近かと記しており、推定マグニチュードは7.1としている。
脚注
参考文献
- 国立天文台 編『理科年表 平成20年』丸善、2007年11月。ISBN 978-4-621-07902-7 。
- 峰岸純夫『中世 災害・戦乱の社会史』吉川弘文館、2011年6月。ISBN 978-4-642-06372-2。
- 武者金吉 編『大日本地震史料 増訂 第一巻 自懿徳天皇御宇至元祿七年』文部省震災予防評議会、1941年 。
- 宇津徳治ほか 編『地震の事典』(第2版)朝倉書店、2001年。ISBN 978-4-2541-6039-0。
関連項目
- ^ 峰岸純夫『中世 災害・戦乱の社会史』2011年6月。p.14.
- ^ 石辺岳男・都司嘉宣・岡村眞・松岡裕美・行谷佑一・佐竹健治・今井健太郎・泊次郎, 2009,[1] (PDF) , 歴史地震, 第24号, 168.
- ^ 2008_07_30(木)東大地震研究所一般公開と一般講義
- ^ a b 石橋克彦,1991,1293年永仁鎌倉地震と相模トラフ巨大地震の再来時間 (PDF) ,地震学会講演予稿集,1991年度秋季大会,251.
- ^ “相模トラフ地震、鎌倉時代にもM8級 「元禄」以前の時期解明”. 神奈川新聞. (2014年4月26日) 2022年12月9日閲覧。
- ^ 石橋克彦, 2018, 1257(正嘉元)年と1293(正応六)年の鎌倉大地震 -史料による相模トラフ巨大地震の再確認- (PDF) , 歴史地震, 第33号, 253.
- ^ “神縄・国府津-松田断層帯 3区域 別々に地震”. 神奈川新聞. (2015年4月25日) 2022年12月9日閲覧。
- ^ 『大日本地震史料』, p282.
- ^ 『大日本地震史料』, p284.
- ^ 宇津ほか(2001), p73-75.
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