鎌倉大地震 概要

鎌倉大地震

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/10 10:01 UTC 版)

概要

正応6年4月12日(1293年5月19日)、関東地方南部で地震が発生。建長寺を代表として多数の神社仏閣が倒壊し、多数の死者が発生した。『鎌倉大日記』では、翌日にも余震と思われる地震の記述が残されており、建造物の倒壊のほか多数の土砂災害などが発生、23,034人もの死者が発生したとされている(『武家年代記裏書』)。また、この震災による混乱を契機とし、鎌倉幕府執権北条貞時は、当時幕府内で専横を振るっていた平頼綱(杲円)邸への襲撃を命令し、頼綱父子の討伐に成功した(平禅門の乱)。朝廷では、地震の発生や、この後(6月から8月)発生した干魃等を重視し、同年8月5日(9月6日)に永仁への改元を行っている[1]

平成20年(2008年)、東京大学地震研究所では、三浦半島小網代湾の堆積物に着目、分析を進めた結果、13世紀頃に発生したと推定される大津波の痕跡を見いだしている[2][3]

この地震の約36年前の正嘉元年8月23日(1257年10月2日)にも関東地方南部に被害をもたらせた正嘉鎌倉地震(M7.0 - 7.5)が発生している。

プレート間の相対速度と、100%に近いと考えられるプレート間の地震滑り率から、相模トラフ沿いではプレート間巨大地震の再来間隔を200-300年程度と考えるのが自然である。しかし、歴史記録上では1923年関東地震と1703年元禄地震以前のプレート間巨大地震が知られていなかった。一方、中世には1241年、1257年、1293年、1433年などM7クラスとされてきた鎌倉付近に被害をもたらした地震がいくつか知られている。これらの内どれかが相模トラフ沿いの巨大地震だった可能性はある。本地震に津波の記載は確認できていないが、『親玄僧正日記』にある由比ヶ浜の鳥居付近で140人もの死体が転がっていた記述は津波による可能性もあり、本地震は相模トラフ沿いの巨大地震の有力な検討候補とされる[4]

2014年、内閣府の地震調査委員会は、M8クラスの相模トラフ地震と評価している[5]。しかし、本地震は相模トラフ巨大地震の有力候補[4]とはされるものの、地震調査委員会は歴史地震学的な検討を充分に行わず本地震をM8級の相模トラフ沿いのプレート間地震と認定したが、1257年の正嘉鎌倉地震もセットで再検討したうえで結論を出す必要があるとされる[6]

2015年4月に政府の地震調査委員会は評価を変更し、相模トラフと分岐断層である国府津(こうづ)-松田断層帯が連動して地震が起こったとした[7]








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