平禅門の乱と独裁権の強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:10 UTC 版)
「北条貞時」の記事における「平禅門の乱と独裁権の強化」の解説
正応2年(1289年)には将軍・惟康親王を退けて、久明親王を擁立している。 頼綱は貞時を擁して御家人保護を全面に出す事で権力基盤としていたが、内管領とは得宗家の家政機関の首長として強大な権力を持つ一方で幕府の主要構成員である評定衆・引付衆ではない御内人であり、将軍家に仕える御家人と北条家に仕える内管領ではそもそも身分差が大きく幕政を主導する事自体に無理があった。このため泰盛派の生き残りである宇都宮景綱ら有力御家人らの反勢力による不満が高まり、頼綱は窮余の策として得宗被官に監察権を与えて強圧的な政権運営を行なうが、これにより成長した貞時からも見切りをつけられることになる。正応6年(1293年)4月22日、貞時は幕政を壟断していた頼綱とその一族を鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて誅殺した(平禅門の乱)。 実権を取り戻した貞時は、一門の北条師時(従兄弟、宗政の子でのち第10代執権となる(後述参照))や宗方らを抜擢し、また霜月騒動で追放されていた金沢北条家の北条顕時らの復権も断行して父の時代へ回帰することを基本方針として得宗家主導の専制政治を強力に推し進めた。10月には引付衆を廃止して顕時・師時・宗宣(のち第11代執権(後述参照))・長井宗秀・宇都宮景綱・時村・公時ら7名を新設した執奏に任命するなど泰盛派の登用を後ろ盾として訴訟制度改革を行い、得宗家による専制政治の強化に努めた。また、元寇後にも薩摩沖に異国船が出現するなどの事件もあり、永仁4年(1296年)には鎮西探題を新たに設置するとともに、西国の守護を主に北条一族などで固めるなどして、西国支配と国防の強化を行なっている。そして、元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するために、永仁5年(1297年)に永仁の徳政令(関東御徳政)を発布するが、これは借金をしにくくなるという逆効果を招き、かえって御家人を苦しめた。
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