豊後国 豊後国の概要

豊後国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/08 13:32 UTC 版)

豊後国

-豊後国
-西海道
別称 豊州(ほうしゅう)
二豊(にほう)[注釈 1]
所属 西海道
相当領域 大分県大部分(宇佐市中津市除く)
諸元
国力 上国
距離 遠国
8郡44郷
国内主要施設
豊後国府 大分県大分市
豊後国分寺 大分県大分市(豊後国分寺跡
豊後国分尼寺 (推定)大分県大分市
一宮 西寒多神社(大分県大分市)
柞原八幡宮(大分県大分市)
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領域

明治維新直前の領域は、現在の大分県から下記を除いた区域に相当する。

沿革

古代

古墳時代には国東半島中心とした地域に国前国造、大分郡を中心とした地域に大分国造、日田郡を中心とした地域に比多国造が設置された。

飛鳥時代大化の改新のあとの701年に律令制大宝律令)が施行され、九州全体は西海道の一部になり、それまでの豊国(とよのくに)が分割され、豊後国と豊前国が設けられた(続日本紀)。

また8世紀前半の編纂とされている『豊後国風土記』は、全国で5つだけのほぼ完全な形で残る風土記の1つである。

豊後国は、平安時代まで和名で「とよ くにの みちのしり」と読んだ。[注釈 2]

中世

平安時代末期の1185年、治承・寿永の乱(源平合戦)で平家が滅びた後、源頼朝は親平家方であった九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の大友氏を守護として九州に送り込んだ。豊後国では大友御紋衆の一萬田氏や大友の下り衆が次第に勢力を強め、国衆であった丹部氏、漆嶋氏、宇佐氏大神氏清原氏藤原氏阿南氏稙田氏大野氏臼杵氏緒方氏賀来氏佐伯氏、橋爪氏、徳丸氏など在地武家を抑え込んだ。

鎌倉時代から室町時代も大友氏が守護であり、戦国時代から安土桃山時代にかけては争いごとも盛んに起きた。

21代目大友宗麟の時代には、ポルトガルカンボジアとの交易も拡大した。

豊臣政権下において検地太閤検地)が実施され、42万石が総石高とされた[1]

江戸時代

1803年に唐橋世済他が編纂した『豊後国志』に当時の豊後国に関する趨勢統計や史跡史実が纏められている。

近世以降の沿革

国内の施設

国府

国府は大分郡にあった。現在の大分市古国府と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺・国分尼寺

豊後国分寺
現在の金光明寺(大分県大分市国分)。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社5座4社の計6座5社が記載されている(「豊後国の式内社一覧」参照)。大社1社は、名神大社ではない。
総社一宮
  • 総社 不詳
  • 一宮 西寒多神社または柞原八幡宮 (大分市上八幡) - 並立し、古くから論争が続いていた。また、中世以降は大伴氏により大分社が一宮に指定されたともいう。

二宮以下は不詳である。

安国寺利生塔


注釈

  1. ^ 別称の「豊州」は、豊前国とあわせて、または単独での呼称。また、「二豊」は、豊前国とあわせての呼称。
  2. ^ 豊(とよ)国(くにの)後(みちのしり)と、漢文の返り読みに似た読み方である。同様に、豊前国のほうは、「とよ くにの みちのくち」と読んだ。
  3. ^ 豊前国宇佐郡が併合された後。
  4. ^ 和名類聚抄』での表記。
  5. ^ a b 近世の表記。

出典

  1. ^ 大分県総務部総務課 1990, p. 4.
  2. ^ a b 末広利人「日田県管地化の実体 : 佐伯藩預所の場合」『大分縣地方史』第105号、大分県地方史研究会、1982年3月、20-37頁、NAID 120004878384 


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