蒼梧郡 蒼梧郡の概要

蒼梧郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:44 UTC 版)

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概要

秦が中国を統一した後に蒼梧郡が置かれた。郡治は不明である。秦が滅亡すると、南越国に継承された。

紀元前111年元鼎6年)、が南越国を滅ぼすと、蒼梧郡が置かれた。郡治は広信県に置かれ、交阯刺史部に属した。前漢末には、蒼梧郡は広信・謝沐高要封陽臨賀端渓馮乗富川茘浦猛陵の10県を管轄した。王莽のとき、新広郡と改称された[1]

後漢が建てられると、蒼梧郡の称にもどされた。蒼梧郡は交州に属し、広信・謝沐・高要・封陽・臨賀・端渓・馮乗・富川・茘浦・猛陵・鄣平の11県を管轄した[2]

三国呉のとき、蒼梧郡の東北の臨賀・謝沐・馮乗・富川・封陽の諸県を分割して、臨賀郡が置かれた。264年永安7年)、交州東部を分割して広州が立てられると、蒼梧郡は広州に転属した。

のとき、茘浦県が始安郡に編入された。蒼梧郡は広信・端渓・高要・建陵・新寧・猛陵・鄣平・農城・元渓・臨允・都羅・武城の12県を管轄した[3]

南朝宋のとき、蒼梧郡は広信・猛陵・懐熙・思安・封興・蕩康・僑寧・遂城・丁留・広陵・武化の11県を管轄した[4]

南朝斉のとき、蒼梧郡は広信・寧新・封興・撫寧・遂城・丁留・懐熙・猛陵・広寧・蕩康・僑寧・思安の12県を管轄した[5]

南朝梁のときに成州が置かれ、蒼梧郡は成州に属した。

583年開皇9年)、南朝陳を滅ぼすと、蒼梧郡は廃止されて、封州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、封州は蒼梧郡と改称された。郡治は封川県に置かれ、封川・都城・蒼梧・封陽の4県を管轄した[6]

621年武徳4年)、蕭銑が唐に降ると、蒼梧郡は唐の梧州となった。蒼梧・豪静・開江の3県を管轄した。742年天宝元年)、梧州は蒼梧郡と改称された。758年乾元元年)、蒼梧郡は梧州と改称され、蒼梧郡の呼称は姿を消した[7]

脚注


  1. ^ 漢書』地理志下
  2. ^ 後漢書』郡国志五
  3. ^ 晋書』地理志下
  4. ^ 宋書』州郡志四
  5. ^ 南斉書』州郡志上
  6. ^ 隋書』地理志下
  7. ^ 旧唐書』地理志四


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