泉区 (横浜市) 地理

泉区 (横浜市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 07:09 UTC 版)

地理

総面積23.58平方キロメートルは、市内18区中第9位、市総面積のうち5.42%。農地は市内最大面積。

横浜市の南西部に位置し、相模野台地と呼ばれる関東ローム層に覆われた比較的平坦な台地の一部で、区の西側を境川和泉川が南北に流れ、北側を阿久和川、東側を宇田川(村岡川)が流れている。台地の辺縁には湧水が分布する。河川流域に農業地帯が開け、製糸業が行われていた。区内は歴史的な経緯より中川地区と中和田地区から成る。

西側は境川を市境として藤沢市大和市と接し、北側は瀬谷区旭区、東側と南側は戸塚区と接する。相鉄いずみ野線横浜市営地下鉄の2本の鉄道路線、および神奈川県道22号横浜伊勢原線(通称長後街道 旧 大山道)が区を横断している。かつて戸塚区に属し、日立製作所戸塚工場・横浜工場、ブリヂストンの従業員らのベッドタウンでもあり、戸塚とのつながりが深い。

1965年以降に市営上飯田団地、県営いちょう団地などの大規模な公営団地の建設が相次いで行われ、1976年に相鉄いずみ野線が開通して、沿線を中心に、急速に宅地開発が進んだ。持ち家比率と、一戸建て率が市内一位である。

区内の数カ所で渓流の蛍をみることができる。飯田団地、いちょう団地には中国残留孤児の帰国家族やインドシナ難民家族などが住み、多文化共生の試みが進められている。2014年に飯田北小学校と統合する前の旧・いちょう小学校は在校生の約半数が外国籍であった。

歴史

原始・古代

境川、阿久和川、和泉川、宇田川に沿った丘陵上に縄文時代遺跡が分布する。弥生台は開発時に弥生時代土器が出土したことによる。古墳(高塚古墳)は今のところ区内では上飯田天神山古墳が知られる。横穴墓は上飯田町柳明横穴墓などが挙げられる。

律令制下の動向は明らかでない。相模国鎌倉郡であった(下飯田町本郷が高座郡涓堤郷であったとする説もあるが不明)。高座郡との境界は境川である。ゆえに広義での鎌倉であった。新橋町、岡津町が鎌倉郡大島郷に比定されている(諸説あり)。

平安時代半ばの人物で鎌倉党の祖鎌倉景正を祀る「御霊社」「五霊社」が区内に存在する。大庭御厨を根拠とする鎌倉党のテリトリーであった可能性がある。境川やその支流をたどって開発を進めていったのであろう。また対岸の渋谷氏の影響も考えられる。同様に「サバ神社」(左馬、鯖などの字を充てる。また名前は変わったが飯田神社もその一つ)がいくつかある。これは一時期鎌倉(現在の寿福寺の地)に住んでいた左馬頭源義朝(または源満仲)を祭神とする。義朝は大庭御厨に乱入して殺傷事件を起こしており、鎌倉党とは微妙な関係にあった。

中世

同じ郡内に鎌倉幕府鎌倉府がおかれ、政治の中心地となる。首都鎌倉に向かうための鎌倉街道上ノ道が通っていた。また、新田義貞による鎌倉攻めはたつ道(横浜市道環状4号)であったという。

飯田は渋谷氏の一族ともいわれる飯田氏の苗字の地。飯田家義石橋山の戦いで敗れた源頼朝を救ったことで知られる。その館跡は現在「富士塚城址」という碑が建つ公園近辺という[1]。飯田氏は当地の御家人として『吾妻鏡』などに名を遺している。

岡津町のマンション「ルネ戸塚弥生台」付近は「玄蕃山」とよばれ、鎌倉幕府御家人と伝える「島田三郎」(史料にはみえず。甲斐氏か)ゆかりの「島田の塚」があった。その岡津には、横浜市立岡津小学校一帯に城が築かれ、少弐氏甲斐氏が支配したといわれる。なお現在の岡津町200番地付近は近世、処刑場であった。

和泉町の長福寺・須賀神社は、北条氏によって滅ぼされた泉親衡(泉小次郎)ゆかりの寺社という[2]。ただし親衡は信濃の御家人であり、泉姓から付会した伝承の可能性もあるが、上述の寺社や同地の泉中央公園一帯は「泉小次郎伝承地」として横浜市地域史跡に登録されており[3]、公園内には親衡の居館と伝わる土塁などの城郭遺構(伝泉小次郎親衡館)が残る[1][4]。泉中央公園の湧き水が「泉」の地名の発祥といわれている。

上飯田町の本興寺は、寺伝では日蓮ゆかりの地であるという。のちに鎌倉にあった不受不施派寺院が慶長の法難にともなって移転してきた(現在、再興された同名寺院が鎌倉市大町2丁目にあり)。日什門流で戦前まで顕本法華宗本山、現日蓮宗由緒寺院。

後北条氏の時代には、『小田原衆所領役帳』によると、区内には上飯田に平山氏、下飯田に川上氏、和泉に笠原氏、岡津に太田氏がいた。岡津には現在の横浜市立岡津小学校周辺に岡津城がおかれた。のちの中田村は岡津村の枝村と考えられる。

近世

江戸幕府ができると、岡津城に岡津陣屋がおかれ、代官彦坂元正が任ぜられた。戸塚宿に近いために、その助郷を担わされた。中田村には、後北条氏の評定衆で小田原征伐に際して豊臣秀吉徳川家康との折衝に当たった石巻康敬が謹慎させられ、戦後そのまま旗本として認められた。家康の関東入府のおり、家康を戸塚区柏尾町で迎えた。その橋は康敬の通称にちなみ「五太夫橋」とよばれて遺っている。また中田寺の開基でもあり、付近に子孫康福が宝暦12年(1762年)建てた墓碑がある(横浜市地域史跡[5])。この石巻家のほか、和泉村は松平家、上飯田村は佐野家、下飯田村は筧家、新橋村は安藤家の知行地となった。

柏尾町を発し、庶民信仰の山である大山に至る大山道が区内を横断していた。領家谷・西田谷には大山道や谷戸の田畑が遺り、中近世の景観を伝えていたが、大規模ニュータウンの開発により消滅した。大山道は今も断片的に遺されている。旧大山道(長後街道)と旧岡津道が交差する踊場は、猫が踊ったという伝説の場所であるが、歌垣あるいは中世の合戦の死者の墓所ともいわれている。坂東三十三箇所観音巡礼の道として、弘明寺と星谷寺(座間市)を結ぶ「ほしのや道」が、和泉町の北部を通っていた。

近代

1889年4月1日 町村制施行により、神奈川県鎌倉郡中川村(阿久和村・上矢部村・秋葉村・名瀬村・岡津村)・中和田村(中田村・上飯田村・下飯田村の全域に高座郡今田村及び上和田村の各飛び地)が誕生。 1939年4月1日 鎌倉郡中川村・中和田村は、鎌倉郡戸塚町・川上村・大正村・本郷村・豊田村・長尾村・瀬谷村とともに横浜市に編入され、戸塚区が誕生した。この戸塚区の区域は横浜市の他の部分(※)と異なり、武蔵国ではなく相模国に属する。

港南区南区の永野地区(上永谷町・上永谷一〜六丁目・下永谷町・下永谷一〜四丁目・東永谷一〜三丁目・日限山一〜四丁目・芹が谷一〜五丁目・野庭町の全域及び日野南五〜七丁目の各一部、南区六ツ川四丁目)は1937年10月1日までは鎌倉郡永野村であったため相模国である。また現在の金沢区朝比奈町も1897年までは鎌倉郡東鎌倉村に属していたため相模国である。

明治時代以降、和泉の清水、横山の各製糸工場、上飯田の持田、宮嵜の各製糸工場、岡津の萩原製糸工場を中心に養蚕業がさかんになった。

第二次世界大戦時中は旧軍関係の施設として、和泉町の横根(現:変電所)に航空灯台、戸塚区深谷町を含む和泉町に海軍通信隊、市立中田小学校一帯に海軍桑原工兵部隊、和泉町中和田小学校近所に神奈川第2抑留所(外人隔離施設)が、それぞれ設置された。終戦直後、長後街道は、ダグラス・マッカーサー厚木飛行場から横浜のホテルニューグランドへ向かう際に利用した道で、中田町中西は、そのための休息所が置かれた。また、かつての人気玩具「ダッコちゃん」の製造工場が上飯田にあった。

現代

1969年戸塚区から分かれて瀬谷区が成立し、旧中川村のうち阿久和町(旧大字阿久和の北部)が同区に編入される。1986年11月3日栄区と同時に中和田支所(吏員派出所)管轄の地域が戸塚区から分区し、泉区が誕生した。

1976年4月8日、相鉄いずみ野線がいずみ野駅まで開通。1990年4月4日いずみ中央駅まで延伸。既に設置されていた区役所の最寄駅となる。1999年3月10日湘南台駅藤沢市)まで延伸。最終的にはJR平塚駅まで延伸できる免許を運輸省(現国土交通省)より受けているが、具体的な工事の予定はない(すぐに延伸できる構造にはなっている)。1999年8月29日、横浜市営地下鉄が湘南台駅まで全面開通。

緑園都市駅にほど近い住宅街(緑園1丁目から7丁目)近隣に神明台処分地という横浜市の最終処分場があった。

1973年10月から第一次埋め立てが開始され、以後2011年3月末までの第7次埋め立てを以って終了した。約40年に渡る埋め立て期間は全国最長である。埋め立てが始まった1973年当時、いずみ野線は開通しておらず住宅も殆ど無い状況で、一部の地主が所有する広大な里山と農地しかなかった。所謂、陸の孤島で土地の利用価値は非常に低く、最終処分場として好都合の場所であった。

横浜市内全エリアから排出された可燃ごみの大多数がこの神明台処分地に埋め立てられた。さらに、第一次から第六次埋め立てまではほとんど焼却せず、そのまま埋め立てがされている。全量焼却し焼却灰による埋め立てが開始されたのは、1996年の第七次埋め立て以降となっている。

もともと第六次埋め立てで閉鎖される予定であったが、代替地の確保困難などにより全量焼却を条件に第七次埋め立てが始まった。他の埋め立て地と同様に、臭い、大気汚染、メタンガスなどの公害問題も発生した。住宅街が形成されて以降、ダイオキシン飛散問題や横浜市のゴミの大多数を受け入れるという心理的な不均衡問題などもあった。また、ゴミがそのまま埋められているエリアがほぼ全てなため、地下水や排出される汚染水問題については長年の課題となっている。汚染水処理施設が設置されたのは第七次埋め立てが始まった1996年である。

神明台処分地は、閉鎖された以降も最終処分場の「廃止の技術上の基準」を満たすまで、横浜市による管理が続く。基準を満たした跡地の一部(第二次埋め立てエリア:1976年3月~1980年6月)は神明台スポーツ施設として地域住民を中心に暫定開放されているが、敷地の大部分は技術上の基準を満たしていないため、跡地利用が進められないのが現状である。

区名の由来

泉区は典型的な瑞祥地名である。

順位 区名
1位 和泉区
2位 泉区
3位 いずみ区
4位 弥生区
5位 いずみ野区
6位 富士見区
7位 中和田区
8位 西戸塚区
9位 北戸塚区
10位 光区

区名は公募の結果に基づき、候補となった「和泉区」「泉区」「いずみ区」などの中から、泉が湧き出るように若い力を生み出し、未来に向けて発展する区であることを祈願し、清らかでさわやかなイメージがあり、簡潔で語調もよい「泉区」に決定した。本来であれば区の大部分を占める旧中和田村に因んだ新区名が相応しかったが、一部に旧中川村(岡津町・新橋町・名瀬町・池の谷・緑園・領家・白百合・西が岡・桂坂・弥生台の各町)を含むため、事前に選考からは外されていた。なお「泉区」は瑞祥地名に分類できるが、実際には、区中心部の和泉町がバックボーンにある。

人口

  • 1990年 126,866
  • 1995年 139,459
  • 2000年 147,370
  • 2005年 152,349
  • 2010年 155,698
  • 2015年 154,025
  • 2020年 152,452

2018年時点での横浜市の推計によると、泉区の人口は2040年に12万8千人、2065年には9万9千人。またこの時、人口に占める65歳以上の割合はそれぞれ39・6%、37・9%と推計している[6]







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