松登晟郎 来歴

松登晟郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 11:18 UTC 版)

来歴

小学校3年の時には既に体重16貫(60kg)に達し、関脇・髙登から小学校卒業の折には「ぜひとも私の所に弟子入りさせてほしい」と頼まれたという。その後引退して年寄・大山を襲名した髙登から再度勧誘され入門、1941年(昭和16年)1月場所で初土俵を踏んだ。四股名は故郷・松戸市と師匠の現役名・髙登にちなんでつけられた。当時「大山親方がすごいのを連れて来たらしい」と評判になった。番付には「枩曻福太郎」と書かれたが、これは書き手の間違いらしく、後に「枩登福太郎」と訂正された[3]

三段目で活躍していた1944年(昭和19年)5月場所を最後に、同年11月に徴兵を受け、陸軍に配属される。敗戦後の1945年(昭和20年)11月場所、三段目格で角界に復帰した。復帰するまでの間に、部屋が東京大空襲で罹災したが、戦後は回向院裏にあった東富士の自宅に寝泊まりするなどして稽古に励んでいた[1]。しかし、幕下に居た頃、家業(小料理屋)の不振を心配していることを理由に1948年(昭和23年)12月に師匠に無断で実家に帰りマゲを落としてしまうが、師匠に説得されたことで土俵に戻ることにした[3]1949年(昭和24年)1月場所で8勝4敗の好成績を挙げ、これを機に同年5月場所で新十両昇進を果たす。十両昇進時はザンバラであった[1]

その後、十両は1年かけて通過し1951年(昭和26年)9月場所で新入幕を果たしその場所では10勝5敗の成績を挙げた。1952年(昭和27年)1月場所から、四股名を「松登」と改めた[3]。9月場所では羽黒山から初の金星を挙げた。1953年(昭和28年)1月場所では新三役の小結で9勝6敗と勝ち越し、同年9月場所で関脇昇進を果たした[3]。その場所では6勝9敗と負け越し平幕に陥落したが、1954年(昭和29年)1月場所では7日目に千代の山から金星を挙げるなど11勝4敗の好成績で初の三賞(敢闘賞)を受賞した。その後は三役に定着していき大関昇進を期待されるようになる。同年5月場所は不調だったが場所前に腸捻転で入院した師匠を気遣い、負けても勝利報告をしていた。しかし、師匠はこれを知っていたのか10日目の朝には「心配しないで思い切って取れ」と諭し、これに勇気付けられたのか残り全部勝って6連勝し9勝6敗と勝ち越し、千代の山・鏡里三根山の2横綱1大関を破ったことが評価されて初の殊勲賞を受賞した。これが効いたか大山親方の病状も快方に向かった[3]

関脇の地位に在った1955年(昭和30年)9月場所では横綱・鏡里と最後まで優勝を争い、千秋楽若ノ花を高々と吊り上げて土俵の外に運び13勝2敗の好成績を挙げ、1敗の鏡里が千秋楽も勝ったため惜しくも優勝は逃したが2回目の殊勲賞を受賞して場所後に若ノ花と同時に大関に昇進した。その後は横綱も期待されたが、左足の甲を骨折して新大関の場所である1956年(昭和31年)1月場所は5勝10敗と大きく負け越した。その後も本調子は出ず5場所連続で9勝6敗が続き、クンロク大関の名で呼ばれる。同年9月より「松登晟郎」と改名。

その後も糖尿病や足の故障に苦しめられ、負け越しの場所も見られるようになってきた。しかし、大関の陥落基準が「2場所連続負け越し」から「3場所連続負け越し」となったため、すぐには陥落しなかった。1958年(昭和33年)1月場所は糖尿病で全休、翌3月場所は12日目に栃錦押し倒されて負け越しが決まり、6勝9敗に終わった。3回目の角番となった同年5月場所では12日目の時点で5勝7敗と後がなくなったが、13日目に大関に同時に昇進した横綱・若乃花を寄り切って勝ち、その勢いで14日目に横綱・千代の山に外掛けで勝って、千秋楽に関脇・安念山吊り出しで下し、8勝7敗と勝ち越してなんとか角番を脱出した。

しかし、翌7月場所は8日目から8連敗して5勝10敗、9月場所は5日目で1勝4敗と不振で6日目から途中休場と連続で負け越して、11月場所は4度目の角番で迎えた。この場所は8日目で2敗とわりあい好調だったが9日目から5連敗し、13日目で6勝7敗と後がなくなったところで若乃花に当てられ今度は上手投げで負けて6勝8敗と負け越しが決まり、3場所連続負け越しで大関陥落が決定的になった。この1番は若乃花が立合い右に変わって上手出し投げを見せたが、松登はこらえて右四つに組み止め、猛攻を凌いでもろ差しになって頭を付けたが、水入りから取組が再開して、若乃花が二枚蹴りから右上手投げを決めた。結局大関時代に2桁勝つことはなかった[4]。本人は「これで大相撲に八百長がないってこと、よくわかったでしょ。あったら大関から落ちないよ」と語っていたという。当の若乃花は「最後の投げは心を鬼にして決めた」と後に述懐している[4]。関脇に陥落した1959年(昭和34年)1月場所は3勝12敗と大きく負け越し、平幕に陥落した。その後は1度小結に戻ることもあったが平幕中位に腰を据えることがほとんどであった。

1961年(昭和36年)11月場所は前頭11枚目で4勝11敗と大敗して翌場所での幕内残留が難しくなり、この場所を限りに37歳で引退した。当時年寄名跡を持っておらず、一時は廃業も考えた。だが、時津風理事長(元横綱・双葉山)の「大関は協会の看板。引退相撲だけでも打たせてやれ」という助言もあって、親友である横綱・朝潮が持っていた振分の名跡を借りて協会に残ることができた。翌年1月、師匠が亡くなり、大山に名跡変更するとともに大山部屋を継承した(1月場所後の断髪式では一門の総帥の高砂(元横綱・前田山)が止めバサミを入れた)。大山部屋は小部屋ではあったが、松登の人柄が良く穏やかな性格が象徴される家庭的な部屋で、力士一人一人に対する丁寧な技術指導は高く評価された。親方としては、前頭2枚目・大飛らを育てた。1986年4月21日、白内障の手術に際して局所麻酔剤に対するアナフィラキシーショックを起こし、それが元となって急逝した。享年61[1]。墓所は青山霊園


  1. ^ a b c d e f g ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p30
  2. ^ 千葉県出身の幕内力士”. 千葉県ホームページ. 2020年2月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)64ページから65ページ
  4. ^ a b 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p43
  5. ^ 大相撲コラム集(キモはここなのだ!)土俵でマンボウダンス(元大関・松登)-goo大相撲
  6. ^ a b c d 角番 (全4回)
  7. ^ 糖尿病・習慣性股関節脱臼・腰部神経痛により全休
  8. ^ 右膝関節変形症及び右膝側副靱帯損傷により6日目から途中休場
  9. ^ 関脇陥落






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