東條英機 私生活・逸話

東條英機

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私生活・逸話

  • 大川周明は東條を評して「下駄なり」と言った[134]。足の下に履くには適するも頭上に戴く器ではないという意味である[134]
  • 学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった[135]。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する[135]。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに1908年(明治41年)に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった[135]。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、1912年(明治45年)に3度目にして合格[135]。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという[135]。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった[135]
  • オトポール事件に際し、関東軍総参謀長であった東條は、ハルビン特務機関長としてユダヤ人難民を助ける決断を行った樋口季一郎少将を新京の関東軍司令部に呼び出して事情を尋ねた[136]。樋口は、日露戦争に際してユダヤ人が日本を支援したことに明治天皇が述べた感謝の言葉と、「五族共和」「八紘一宇」の理念に言及した上で、ナチス・ドイツ(当時、日本とドイツは日独防共協定を結んでいた)のユダヤ人弾圧政策に日本が追随する理由はない、とユダヤ人に対する人道的対応の正当性を主張した[136]。東條は同意し、樋口の決断を不問とした[136]。関東軍や、独断専行を行う東條にはむしろ批判的であった樋口であるが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」と述べた[136]
  • 女性に対して禁欲的であり、浮いた話が一切なかった[118]。無類の愛妻家であり、大尉から少佐の時期に3年ほど欧州に駐在した際は、東條からかつ子夫人へ144通、かつ子夫人から東條へ159通の手紙が行き交った[118]。夫婦仲は終生にわたって良く、首相を務めていた昭和17年の正月、年賀の酒に酔った東條が「芸者遊びにうつつを抜かす者など駄目だ! 俺は若い時も今も女房一筋だ!」という旨を「放言」した挿話がある[118]
  • 金銭や蓄財に対しても禁欲的であった。陸軍大臣に就任した昭和15年に、世田谷用賀に「私邸」を建て始めたが、建坪30坪のささやかな家であり、配給の資材を使って少しずつ工事を進めた[118]。東條は昭和19年7月に首相・陸相・参謀総長などの公職を全て退き、7月22日付で予備役に編入された[137]。その後、東條内閣の閣僚だった内田信也が自動車で用賀に行って「東條の屋敷」をいくら探しても見つからず、苦労して東條の家にたどり着いた経緯を下記のように述べている[118]
先ごろ初めて東条邸を訪ねましたが、まずここだと車を入れたのが鍋島侯爵〔旧・佐賀藩主〕邸で、次は某実業家の屋敷でした。ようやく探し当てたのは噂には及びもつかない粗末な家で、せいぜい秘書官官舎程度だったのには驚きました。 — 内田信也。〔〕内は引用者が挿入、[118]
  • 首相秘書官を務めていた鹿岡円平が、重巡洋艦那智」艦長としてマニラ湾で戦死すると、家で飼っていた犬に「那智」と名づけて鹿岡を偲んでいたらしい[138]
  • 1941年(昭和16年)頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた[139]
  • 日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた[注釈 19]
  • 部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた[140][88]
  • 精神論を重要視し、戦時中、それに類する抽象的な意見をしばしば唱えている。一例を挙げれば、コレヒドール島での日本軍の猛攻に対して、米軍が「精神が攻撃した」と評したことに同感し「飛行機は人が飛んでいる。精神が飛んでいるのだ。」と答えている[141]
  • 陸軍飛行学校を訪れた時、東條はそこの訓練生にこんな質問をした。「敵の飛行機は何によって墜とすか。」訓練生が機関銃や高角砲で墜とします、と答えると「銃によって墜とすと考えるのは、邪道である。どこまでも、魂によって敵にぶつかっていかなければ、敵機を墜とすことはできない。この気迫があってはじめて機関銃によって撃墜できる。」と訓示した。これを、小谷賢(日本大学教授)は、論理的合理性を外れて精神的なところを重視している、と指摘している[142]
  • 何代もの総理大臣に仕えた運転手が、「歴代総理のうちでだれが一番立派だったか」と聞いたところ、「東條閣下ほど立派な方はおられない」と答えた[143]。理由は「隅々まで部下思いの方だったから」ということで、「あることをすれば、どこの誰が困り、面目を失するか」と相当の気配りを懸念していた人物だから案外と人気があった[143]。それゆえに総理のときには陸軍大臣を兼任し、最後には参謀総長まで兼任できるだろうと答えた[143]
  • 東條はドイツ留学時、軍馬の研究に生かすため、欠かさず競馬の観戦に行っていた[144]。しかし、ある日、下宿先に帰ってくると、「競馬に行くのは、もうきょうかぎりで止めにした」と下宿先のエルゼ・シュタム夫人に宣言した[144]。理由は「きょうの競馬の最中、一頭の馬がつまずいて転倒して、脚を折ってしまった。無用の苦痛をあたえないために馬はその場で射殺されたが、その有様があまりにも残酷で、とても見ていられなかった。競馬があんなにむごいものだとは、知らなかった。もう二度とふたたび、競馬には行かない。」とのことで、競馬の残酷な側面に気づかされたためであった[144]
  • 処刑前日の夕食は米飯、みそ汁、焼き魚、肉、コーヒー、パン、ジャムといった“和洋折衷”のメニューで、東条は「一杯やりたい」などと笑っていたという[145]

注釈

  1. ^ a b c 誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている[要出典]本籍地岩手県
  2. ^ 1941年の「言論、出版、集會、結社等臨時取締法」における公事結社
  3. ^ 現在の百科事典、辞典類、学術誌、研究書、文部科学省検定教科書 等における歴史人物名としての表記は「東英機」。存命当時の『職員録』など印刷物における表記は「東英機」、御署名原本における大臣副書は「東英機」であった。
  4. ^ 当時の陸軍は明治維新の元老たる山縣有朋を中心とする薩長軍閥が幅を利かせ、戊辰戦争では賊軍扱いとなった東北地方諸藩の出身者は様々な差別を受けたと言われることがある。もっとも八幡和郎『歴代総理の通信簿』(PHP研究所)によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗という明確な理由があるという。
  5. ^ このとき、山下奉文河辺正三らとも交流があったという[9]
  6. ^ この人事については皇道派による左遷であるという見方がある[17]
  7. ^ この時期の満州国経営の重要人物を一まとめにし、弐キ参スケと称すことがある。
  8. ^ 1937年12月のトラウトマン工作の条件が賠償を含む厳しい条件に吊り上がり、1938年近衛文麿による「国民政府相手とせず」により日中関係が最悪になっていたが、1940年の桐工作で一時期対立していた蒋介石の国民政府との和睦を考え、「汪・蔣政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」を基にした条件が行われたが、蔣介石は中国本土への日本軍の防共駐屯には断固反対し、一方東條英機も日本軍の無条件撤退に断固反対した。
  9. ^ 当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。
  10. ^ 11月30日 東条首相拝謁時 『(前略)海軍ノ一部ニ作戦ニ就キ不安ヲ懐キ居ル者アルヤニ拝謁セラルル御話アリシトノコト(布哇作戦ノ予想ニテ犠牲ノ多カルヘキ御話ナリシカト思ハル)ニテ、首相ガ拝謁ノ時首相ニ御下問アリシ (首相)少シモ聞及無之旨奉答』[33]
  11. ^ 小磯が予備役のままだったためである。小磯自身は大命降下の際に現役に復帰して陸相を兼ねることを希望したが、陸軍がそれを認めなかった。
  12. ^ いずれも「陸軍大臣東条英機」名で出されたもの。
  13. ^ 靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。
  14. ^ 前田利為の戦死後に、同様の状況で死亡と認定された古賀峯一は「戦地での公務死」であるにもかかわらず「殉職」とされた。
  15. ^ ただしこの時、特高警察を指揮する内務大臣は安藤紀三郎
  16. ^ 本来の取り調べは警視庁の担当で、陸軍の憲兵隊ではない。東郷は中野を26日からの第83回帝国議会に登院できないよう拘束しておくことを望んだが、検事総長と警視総監は拘束しておくだけの罪状はないとしたため、憲兵隊長が中野の身柄を引き取って流言飛語の「自白」を引き出させたのである[112]
  17. ^ 大日本帝国憲法第53条で定められた不逮捕特権を持つ国会議員たる中野は現行犯および内乱外患に関わる罪のいずれでもなかったため、そもそも拘留されること自体が法に反していた
  18. ^ ただし田中は1965年(昭和40年)の「文藝春秋」において、東京裁判における自身の証言の真の目的は「天皇をこの裁判に出さずに無罪にし、国体を護持する」ことだったとしている[129]
  19. ^ 映画「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」より。なお、松岡洋右も日米開戦前に行ったハワイでの講演会において、同様の発言をしている。

出典

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  158. ^ 『官報』1923年12月06日 敍任及辭令
  159. ^ 『官報』1928年10月05日 敍任及辭令
  160. ^ 『官報』1933年04月10日 敍任及辭令
  161. ^ 『官報』1936年12月29日 敍任及辭令
  162. ^ 『官報』1940年08月13日 敍任及辭令
  163. ^ 『官報』1942年09月21日 敍任及辭令
  164. ^ 『官報』1913年06月02日 敍任及辭令
  165. ^ 『官報』1920年06月26日 敍任及辭令
  166. ^ 『官報』1928年10月01日 敍任及辭令
  167. ^ 『官報』1940年09月13日 敍任及辭令
  168. ^ 『官報』第3395号「叙任及辞令」1938年5月2日。
  169. ^ 『官報』第4106号「叙任及辞令」1940年9月11日。
  170. ^ 『官報』第4343号「叙任及辞令」1941年7月1日。
  171. ^ 『官報』第4343号「叙任及辞令」1941年7月1日。
  172. ^ 『官報』1942年02月12日 敍任及辭令
  173. ^ 『官報』1943年06月05日 敍任及辭令
  174. ^ 『官報』1942年09月16日 敍任及辭令
  175. ^ 『官報』1943年07月30日 敍任及辭令
  176. ^ 『官報』1940年1月24日 敍任及辭令
  177. ^ 『官報』1942年02月24日 敍任及辭令






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