東條英機 私生活・逸話

東條英機

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私生活・逸話

  • 大川周明は東條を評して「下駄なり」と言った[170]。足の下に履くには適するも頭上に戴く器ではないという意味である[170]
  • 学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった[171]。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する[171]。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに1908年(明治41年)に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった[171]。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、1912年(明治45年)に3度目にして合格[171]。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという[171]。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった[171]
  • オトポール事件に際し、関東軍参謀長であった東條は、ハルビン特務機関長としてユダヤ人難民を助ける決断を行った樋口季一郎少将を新京の関東軍司令部に呼び出して事情を尋ねた[172]。樋口は、日露戦争に際してユダヤ人が日本を支援したことに明治天皇が述べた感謝の言葉と、「五族共和」「八紘一宇」の理念に言及した上で、ナチス・ドイツ(当時、日本とドイツは日独防共協定を結んでいた)のユダヤ人弾圧政策に日本が追随する理由はない、とユダヤ人に対する人道的対応の正当性を主張した[172]。東條は同意し、樋口の決断を不問とした[172]。関東軍や、独断専行を行う東條にはむしろ批判的であった樋口であるが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」と述べた[172]
  • 陸軍大臣に就任した後に、東京世田谷区用賀に「私邸」(建坪は30坪。配給の資材を用いた)を建てた[12]。東條は昭和19年7月に首相・陸相・参謀総長などの公職を全て退き、7月22日付で予備役に編入された[173]。その後、東條内閣の閣僚だった内田信也が自動車で用賀に行って「東條の屋敷」をいくら探しても見つからず、苦労して東條の家にたどり着いた経緯を下記のように述べている[12]
先ごろ初めて東条邸を訪ねましたが、まずここだと車を入れたのが鍋島侯爵〔旧・佐賀藩主〕邸で、次は某実業家の屋敷でした。ようやく探し当てたのは噂には及びもつかない粗末な家で、せいぜい秘書官官舎程度だったのには驚きました。 — 内田信也。〔〕内は引用者が挿入、[12]
  • 首相秘書官を務めていた鹿岡円平が、重巡洋艦那智」艦長としてマニラ湾で戦死すると、家で飼っていた犬に「那智」と名づけて鹿岡を偲んでいたらしい[174]
  • 1941年(昭和16年)ごろに知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた[175]
  • 日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた[注釈 22]
  • 部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた[176][107]
  • 精神論を重要視し、戦時中、それに類する抽象的な意見をしばしば唱えている。一例を挙げれば、コレヒドール島での日本軍の猛攻に対して、米軍が「精神が攻撃した」と評したことに同感し「飛行機は人が飛んでいる。精神が飛んでいるのだ。」と答えている[177]。陸軍飛行学校を訪れた時、東條はそこの訓練生にこんな質問をした。「敵の飛行機は何によって墜とすか。」訓練生が機関銃や高角砲で墜とします、と答えると「銃によって墜とすと考えるのは、邪道である。どこまでも、魂によって敵にぶつかっていかなければ、敵機を墜とすことはできぬ。この気迫があってはじめて機関銃によって撃墜できる。」と訓示した。これを、小谷賢(日本大学教授)は、論理的合理性を外れて精神的なところを重視している、と指摘している[178]
  • 1943年2月1日の衆議院予算委員会では、資源不足に対する対策として、2+3を5にするのではなく、10でも20でも80にもする必要があると発言し、「2+3=80」「1+4=80」の「決戦算術」と報じられた[179][180]松下電器産業はこの発言を元に、「東條首相の算術 2+2=80」という東條の顔写真入りのポスターを作製した。
  • 何代もの総理大臣に仕えた運転手が、「歴代総理のうちでだれが一番立派だったか」と聞いたところ、「東條閣下ほど立派な方はおられぬ」と答えた[181]。理由は「隅々まで部下思いの方だったから」ということで、「あることをすれば、どこの誰が困り、面目を失するか」と相当の気配りを懸念していた人物だから案外と人気があった[181]。それゆえに総理のときには陸軍大臣を兼任し、最後には参謀総長まで兼任できるだろうと答えた[181]
  • 東條はドイツ留学時、軍馬の研究に生かすため、欠かさず競馬の観戦に行っていた[182]。しかし、ある日、下宿先に帰ってくると、「競馬に行くのは、もう今日限りで止めにした」と下宿先のエルゼ・シュタム夫人に宣言した[182]。理由は「今日の競馬の最中、一頭の馬が躓き転倒して、脚を折ってしまった。無用の苦痛を与えぬために馬はその場で射殺されたが、その有様があまりにも残酷で、とても見ていられなかった。競馬があんなにむごいものだとは、知らなかった。もう二度と再び、競馬には行かぬ。」とのことで、競馬の残酷な側面に気づかされたためであった[182]
  • 処刑前日の夕食は米飯、みそ汁、焼き魚、肉、コーヒー、パン、ジャムといった“和洋折衷”のメニューで、東條は「一杯やりたい」などと笑っていたという[183]

注釈

  1. ^ a b c 誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている[要出典]本籍地東京都
  2. ^ 1941年の「言論、出版、集会、結社等臨時取締法」における公事結社
  3. ^ このとき、山下奉文河辺正三らとも交流があったという[8]
  4. ^ この人事については皇道派による左遷であるという見方がある[16]
  5. ^ この時期の満州国経営の重要人物を一まとめにし、弐キ参スケと称すことがある。
  6. ^ 1937年12月のトラウトマン工作の条件が賠償を含む厳しい条件に吊り上がり、1938年近衛文麿による「国民政府相手とせず」により日中関係が最悪になっていたが、1940年の桐工作で一時期対立していた蒋介石の国民政府との和睦を考え、「汪・蔣政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」を基にした条件が行われたが、蔣介石は中国本土への日本軍の防共駐屯には断固反対し、一方東條英機も日本軍の無条件撤退に断固反対した。
  7. ^ 当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。
  8. ^ 11月30日 東条首相拝謁時 『(前略)海軍ノ一部ニ作戦ニ就キ不安ヲ懐キ居ル者アルヤニ拝謁セラルル御話アリシトノコト(布哇作戦ノ予想ニテ犠牲ノ多カルヘキ御話ナリシカト思ハル)ニテ、首相ガ拝謁ノ時首相ニ御下問アリシ (首相)少シモ聞及無之旨奉答』[40]
  9. ^ 小磯が予備役のままだったためである。小磯自身は大命降下の際に現役に復帰して陸相を兼ねることを希望したが、陸軍がそれを認めなかった。
  10. ^ もっとも、東條とその家族の動静を追ったジャーナリストの平野素邦の著述には、東條の自殺失敗でその家族が激しい批判にさらされたことが書かれているが、裁判証言でその評判が持ち直したといったことは日本の主権回復後の著述であっても一切書かれていない[85]。また、当時毎日新聞のカメラマンであった日沢四郎は、首相当時から処刑に至るまで東條の家族に取材で会うことがたびたび会っていたが、彼の著述においても処刑前に家族の様子に変化はなかったことが記されている[86]
  11. ^ 2023年8月14日までに理由が記載されたアメリカ軍公文書がアメリカ国立公文書館にて発見されている
  12. ^ いずれも「陸軍大臣東條英機」名で出されたもの。
  13. ^ 靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。
  14. ^ ただしこの時、特高警察を指揮する内務大臣は安藤紀三郎
  15. ^ 本来の取り調べは警視庁の担当で、陸軍の憲兵隊ではない。東郷は中野を26日からの第83回帝国議会に登院できないよう拘束しておくことを望んだが、検事総長と警視総監は拘束しておくだけの罪状はないとしたため、憲兵隊長が中野の身柄を引き取って流言飛語の「自白」を引き出させたのである[125]
  16. ^ 明治憲法下の司法制度では、各級裁判所(大審院、控訴院、地方裁判所、区裁判所)に「検事局」が付設されていた[127]
  17. ^ 大日本帝国憲法第53条で定められた不逮捕特権を持つ国会議員たる中野は現行犯および内乱外患に関わる罪のいずれでもなかったため、そもそも拘留されること自体が法に反していた。
  18. ^ 秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版、東京大学出版会、2005年)によると、塚本清彦少佐(陸士36期・陸大52期)は、昭和16年3月に陸軍省整備局課員(戦備課)、昭和19年6月13日付で第31軍参謀、同年7月17日付で独立混成第48旅団参謀、同年9月30日(または同年7月24日)にグアム島で戦死[131]
  19. ^ 前田利為が予備役となった昭和14年1月の時点で、東條は陸軍人事に直接は関与しない陸軍航空総監であり、前田の予備役編入に関与した形跡は特にない。陸軍で人事畑が長かった額田坦(陸軍中将)は「加賀藩前田家当主・侯爵である前田は、その身分を鼻にかけた振る舞いが目立って陸軍部内で評判が悪く、そのために中将で予備役に編入された」という旨を述べている[145]
  20. ^ 前田利為の戦死後に、同様の状況で死亡と認定された古賀峯一は「戦地での公務死」であるにもかかわらず「殉職」とされた。
  21. ^ ただし田中は1965年(昭和40年)の「文藝春秋」において、東京裁判における自身の証言の真の目的は「天皇をこの裁判に出さずに無罪にし、国体を護持する」ことだったとしている[150]
  22. ^ 映画「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」より。なお、松岡洋右も日米開戦前に行ったハワイでの講演会において、同様の発言をしている。
  23. ^ 英機の嫡孫である英勝も就職に苦労し、陸軍運輸部と戦争中に関係のあった西武運輸の温情により同社に入社できた[187]

出典

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