東條英機
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栄典
- 位階
- 1905年(明治38年)5月26日 - 正八位[179][180]
- 1908年(明治41年)3月20日 - 従七位[179][181]
- 1913年(大正2年)5月20日 - 正七位[179][182]
- 1918年(大正7年)7月10日 - 従六位[179][183]
- 1923年(大正12年)11月30日 - 正六位[179][184]
- 1928年(昭和3年)9月15日 - 従五位[179][185]
- 1933年(昭和8年)4月1日 - 正五位[179][186]
- 1937年(昭和12年)12月26日 - 従四位[179][187]
- 1939年(昭和14年)2月1日 - 正四位[179][188]
- 1940年(昭和15年)8月1日 - 従三位[179][189]
- 1942年(昭和17年)8月15日 - 正三位[179][190]
- 1944年(昭和19年)7月28日 - 従二位[179]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等瑞宝章・明治三十七八年従軍記章[179]
- 1913年(大正2年)5月31日 - 勲五等瑞宝章[179][191]
- 1920年(大正9年)6月25日 - 勲四等瑞宝章[179][192]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日小綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[179]
- 1928年(昭和3年)9月29日 - 勲三等瑞宝章[179][193]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 勲二等旭日重光章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[179]
- 1937年(昭和12年)7月7日 -
勲一等瑞宝章[179]
- 1940年(昭和15年)
- 外国勲章佩用允許
- 1937年(昭和12年)12月1日 - 満州帝国:勲一位柱国章[195]
- 1940年(昭和15年)9月9日 - 満州帝国:勲一位景雲章[196]
- 1941年(昭和16年)6月27日
- イタリア王国:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章グランコルドーニ[197]
- タイ王国:レレファンブラン勲章グランクロア[197]
白象勲章勲特等 :1942年(昭和17年)2月9日[198]
- 1942年(昭和17年)9月14日 - 中華民国:勲一位龍光大綬章 :[199]
- 1943年(昭和18年)6月2日 - 中華民国:特級同光勲章:[200]
チュラチョームクラーオ勲章グランド・クロス :1943年(昭和18年)7月23日[201]
ドイツ鷲勲章大十字章 :1940年(昭和15年)1月18日[202]
- 1942年(昭和17年)2月20日 - 満州国:建国神廟創建記念章[203]
- 1944年(昭和19年)7月20日 - 満州国国勢調査紀念章[204]
注釈
- ^ a b c 誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている[要出典]。本籍地は東京都。
- ^ 1941年の「言論、出版、集会、結社等臨時取締法」における公事結社。詳細は「大政翼賛会」を参照
- ^ このとき、山下奉文・河辺正三らとも交流があったという[8]。
- ^ この人事については皇道派による左遷であるという見方がある[16]。
- ^ この時期の満州国経営の重要人物を一まとめにし、弐キ参スケと称すことがある。
- ^ 1937年12月のトラウトマン工作の条件が賠償を含む厳しい条件に吊り上がり、1938年の近衛文麿による「国民政府相手とせず」により日中関係が最悪になっていたが、1940年の桐工作で一時期対立していた蒋介石の国民政府との和睦を考え、「汪・蔣政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」を基にした条件が行われたが、蔣介石は中国本土への日本軍の防共駐屯には断固反対し、一方東條英機も日本軍の無条件撤退に断固反対した。
- ^ 当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。
- ^ 11月30日 東条首相拝謁時 『(前略)海軍ノ一部ニ作戦ニ就キ不安ヲ懐キ居ル者アルヤニ拝謁セラルル御話アリシトノコト(布哇作戦ノ予想ニテ犠牲ノ多カルヘキ御話ナリシカト思ハル)ニテ、首相ガ拝謁ノ時首相ニ御下問アリシ (首相)少シモ聞及無之旨奉答』[35]
- ^ 小磯が予備役のままだったためである。小磯自身は大命降下の際に現役に復帰して陸相を兼ねることを希望したが、陸軍がそれを認めなかった。
- ^ もっとも、東條とその家族の動静を追ったジャーナリストの平野素邦の著述には、東條の自殺失敗でその家族が激しい批判にさらされたことが書かれているが、裁判証言でその評判が持ち直したといったことは日本の主権回復後の著述であっても一切書かれていない[79]。また、当時毎日新聞のカメラマンであった日沢四郎は、首相当時から処刑に至るまで東條の家族に取材で会うことがたびたび会っていたが、彼の著述においても処刑前に家族の様子に変化はなかったことが記されている[80]。
- ^ いずれも「陸軍大臣東條英機」名で出されたもの。
- ^ 靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争・事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。
- ^ ただしこの時、特高警察を指揮する内務大臣は安藤紀三郎。
- ^ 本来の取り調べは警視庁の担当で、陸軍の憲兵隊ではない。東郷は中野を26日からの第83回帝国議会に登院できないよう拘束しておくことを望んだが、検事総長と警視総監は拘束しておくだけの罪状はないとしたため、憲兵隊長が中野の身柄を引き取って流言飛語の「自白」を引き出させたのである[117]。
- ^ 明治憲法下の司法制度では、各級裁判所(大審院、控訴院、地方裁判所、区裁判所)に「検事局」が付設されていた[119]。
- ^ 大日本帝国憲法第53条で定められた不逮捕特権を持つ国会議員たる中野は現行犯および内乱外患に関わる罪のいずれでもなかったため、そもそも拘留されること自体が法に反していた。
- ^ 秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版、東京大学出版会、2005年)によると、塚本清彦少佐(陸士36期・陸大52期)は、昭和16年3月に陸軍省整備局課員(戦備課)、昭和19年6月13日付で第31軍参謀、同年7月17日付で独立混成第48旅団参謀、同年9月30日(または同年7月24日)にグアム島で戦死[123]。
- ^ 前田利為が予備役となった昭和14年1月の時点で、東條は陸軍人事に直接は関与しない陸軍航空総監であり、前田の予備役編入に関与した形跡は特にない。陸軍で人事畑が長かった額田坦(陸軍中将)は「加賀藩前田家当主・侯爵である前田は、その身分を鼻にかけた振る舞いが目立って陸軍部内で評判が悪く、そのために中将で予備役に編入された」という旨を述べている[137]。
- ^ 前田利為の戦死後に、同様の状況で死亡と認定された古賀峯一は「戦地での公務死」であるにもかかわらず「殉職」とされた。
- ^ ただし田中は1965年(昭和40年)の「文藝春秋」において、東京裁判における自身の証言の真の目的は「天皇をこの裁判に出さずに無罪にし、国体を護持する」ことだったとしている[142]。
- ^ 映画「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」より。なお、松岡洋右も日米開戦前に行ったハワイでの講演会において、同様の発言をしている。
- ^ 英機の嫡孫である英勝も就職に苦労し、陸軍運輸部と戦争中に関係のあった西武運輸の温情により同社に入社できた[178]。
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- ^ 「長谷川清外三十一名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504700
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