東條英機 評価

東條英機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/28 05:07 UTC 版)

評価

批判的な評価

政治姿勢に対する批判

自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、逓信省工務局長・松前重義が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等など、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)[148]

「カミソリ東條」の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされたが、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった東條を人前でも平気で「東條上等兵」と呼んで馬鹿にすることしばしばであった。スケールの大きな理論家肌の石原からすると、東條は部下に気を配っているだけの小人物にしか見えなかったようである。戦時中の言論統制下でも、石原は東條について容赦なく馬鹿呼ばわりし、「憲兵隊しかつかえない女々しい男」といって哄笑していた。このため石原には東條の命令で常に内務省や憲兵隊の監視がついたが、石原の度量の大きさにのまれて、逆に教えを乞う刑事や憲兵が多かったという(青江舜二郎『石原莞爾』)。

また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「あなたと東條は意見や思想上、対立していたようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか」と答えている。東條と石原を和解させ、石原の戦略的頭脳を戦局打開に生かそうと、甘粕正彦その他の手引きで、1942年(昭和17年)末、両者の会談が開かれている。しかし会談の冒頭、石原は東條に「君には戦争指導の能力はないから即刻退陣しなさい」といきなり直言、東條が機嫌を悪くして、会談は空振りに終わった。

その他・国内での批判など

秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。

司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」[149]中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。

元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている[150]

福田和也は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理の値打ち』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下への優しい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。

半藤一利は「昭和の陸軍の持っていたあらゆる矛盾が彼のもとに集約されていうな、そんな印象を受けます」と著書内で評している。

保阪正康は、生前の木戸幸一に取材し、「なぜ、東條や陸海軍の軍事指導者はあんな戦争を一生懸命やったのか」と書面で質問し、その答えの中に「彼らは華族になりたかった」とあった。満州事変関東軍の司令官の本庄繁男爵になっている。東條たちは爵位がほしかった。それが木戸の見方だったと述べている[151]

好意的な評価

昭和天皇からの信任

昭和天皇独白録』には、下記のように東條を評価する言が多くみられる。

元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。 — 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、[12]
東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中〻良い処があつた。 — 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、[12]
東条は平沼に云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない。只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く。 — 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、[12]

原剛秦郁彦は、昭和天皇が東條を評価・信頼した理由を下記のように分析している[12]

昭和天皇は東条に信頼感を寄せているんです。東条を非常に高く評価しているのは、それまでの大臣とか参謀総長と違って、本当のことをきちんと報告したからでしょう。 — 原剛[12]
能吏なんですよ。今の世の中でも、能吏は意外に少ないんです。東条はまさに能吏であり、そこが天皇のお気に召したわけです。 — 秦郁彦[12]

日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれが窺える(ただし、日米開戦日に皇居の方角に向かって号泣していたことについて、君臣の考えが一致したことに感激して泣いたように語っていたとの主張もある)。

昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、軍律裁判よる全員の処刑を主張する参謀本部に反対したこと(昭和天皇独白録「十七年四月米飛行士を処罰した時も、彼の意見で裁判に附する事にしたので、全部死刑にすると云ふのを、東條が反対して一番責任のある三人を銃殺にし、他は勅許により無罪にした。之が彼が参謀本部と妥協した結果であって、実際は、あの飛行機から射撃した場処には、高角砲か高射機関銃があったらしいから、三人の者も責任がなかったものと思ふ」)、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。

『昭和天皇独白録』には、昭和前期の多くの政治家・軍人に対し、昭和天皇の厳しい評価が記述されているが(例えば、石原莞爾広田弘毅松岡洋右平沼騏一郎宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたかが分かる。東條は、細かく何事も天皇に報告していたと言われ、そのため天皇も東條の忠誠心を極めて信頼するようになっていったことが伺える。戦後、かなりの資産が東條家にあったことが明らかになったが、これは天皇からの下賜金・恩賜金を浪費せず、夫人が貯蓄していたものであった。

国内の好意的な評価

木戸幸一の評
「東條って人は非常に陛下の命というと本当に一生懸命になってやるわけでね、その点はある意味ではまた大変強い。東條って人はよくみんなに言われるような主戦論者でもなければ何でもないんだ。極めて事務的な男で政治家でもないんですよ」と語っている[152]
重光葵の評
「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」[153]
徳富蘇峰の評 -日露戦争指導層との対比-
徳富蘇峰は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物の欠乏」を挙げて、「舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない 」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「咀嚼ができないほどの、大物」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事」と断じている[154]
井上寿一の評
井上寿一は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している[155]
来栖三郎の評 -大東亜主義に対する姿勢-
来栖三郎は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている[156]
山田風太郎の評
山田風太郎は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている[157]。自決未遂直後は東條を痛烈に批判した山田風太郎だが(「東條英機自殺未遂事件#反応」を参照)、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。
  • 東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。
  • GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。
  • 敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。
西部邁の評
西部邁(評論家)は2017年の著書で「(靖国)神社は「英霊」を祀る場所であり、そして「英(ひい)でた霊」とは「国家に公式的な貢献をなして死んだ者の霊」のことをさす。故東条英機をはじめとするA級戦犯と(占領軍から)烙印を押された我が国の旧指導者たちに英霊の形容を冠するのは、歴史の連続性を保つという点で、是非とも必要なことと思われる」、「A級戦犯と名付けられている(戦勝国によって殺害された)人々の霊(なるもの)が英霊でないはずがない[158]」と述べている。

外国からの好意的な評価

レーリンクの評
東京裁判の判事の一人でオランダのベルト・レーリンクは著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です」と東京裁判の有様を批判している。
その他
イギリスのジャーナリストであるヘンリー・スコット・ストークスは、樋口季一郎安江仙弘らと共に、多くのユダヤ人の人命を救い、アドルフ・ヒトラー(ドイツ)からの再三にわたる抗議に「当然な人道上の配慮」と一蹴した東條の功績は大きいと評している[159]

注釈

  1. ^ a b c 誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている[要出典]本籍地東京都
  2. ^ 1941年の「言論、出版、集会、結社等臨時取締法」における公事結社
  3. ^ このとき、山下奉文河辺正三らとも交流があったという[8]
  4. ^ この人事については皇道派による左遷であるという見方がある[16]
  5. ^ この時期の満州国経営の重要人物を一まとめにし、弐キ参スケと称すことがある。
  6. ^ 1937年12月のトラウトマン工作の条件が賠償を含む厳しい条件に吊り上がり、1938年近衛文麿による「国民政府相手とせず」により日中関係が最悪になっていたが、1940年の桐工作で一時期対立していた蒋介石の国民政府との和睦を考え、「汪・蔣政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」を基にした条件が行われたが、蔣介石は中国本土への日本軍の防共駐屯には断固反対し、一方東條英機も日本軍の無条件撤退に断固反対した。
  7. ^ 当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。
  8. ^ 11月30日 東条首相拝謁時 『(前略)海軍ノ一部ニ作戦ニ就キ不安ヲ懐キ居ル者アルヤニ拝謁セラルル御話アリシトノコト(布哇作戦ノ予想ニテ犠牲ノ多カルヘキ御話ナリシカト思ハル)ニテ、首相ガ拝謁ノ時首相ニ御下問アリシ (首相)少シモ聞及無之旨奉答』[35]
  9. ^ 小磯が予備役のままだったためである。小磯自身は大命降下の際に現役に復帰して陸相を兼ねることを希望したが、陸軍がそれを認めなかった。
  10. ^ もっとも、東條とその家族の動静を追ったジャーナリストの平野素邦の著述には、東條の自殺失敗でその家族が激しい批判にさらされたことが書かれているが、裁判証言でその評判が持ち直したといったことは日本の主権回復後の著述であっても一切書かれていない[79]。また、当時毎日新聞のカメラマンであった日沢四郎は、首相当時から処刑に至るまで東條の家族に取材で会うことがたびたび会っていたが、彼の著述においても処刑前に家族の様子に変化はなかったことが記されている[80]
  11. ^ いずれも「陸軍大臣東條英機」名で出されたもの。
  12. ^ 靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。
  13. ^ ただしこの時、特高警察を指揮する内務大臣は安藤紀三郎
  14. ^ 本来の取り調べは警視庁の担当で、陸軍の憲兵隊ではない。東郷は中野を26日からの第83回帝国議会に登院できないよう拘束しておくことを望んだが、検事総長と警視総監は拘束しておくだけの罪状はないとしたため、憲兵隊長が中野の身柄を引き取って流言飛語の「自白」を引き出させたのである[117]
  15. ^ 明治憲法下の司法制度では、各級裁判所(大審院、控訴院、地方裁判所、区裁判所)に「検事局」が付設されていた[119]
  16. ^ 大日本帝国憲法第53条で定められた不逮捕特権を持つ国会議員たる中野は現行犯および内乱外患に関わる罪のいずれでもなかったため、そもそも拘留されること自体が法に反していた。
  17. ^ 秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版、東京大学出版会、2005年)によると、塚本清彦少佐(陸士36期・陸大52期)は、昭和16年3月に陸軍省整備局課員(戦備課)、昭和19年6月13日付で第31軍参謀、同年7月17日付で独立混成第48旅団参謀、同年9月30日(または同年7月24日)にグアム島で戦死[123]
  18. ^ 前田利為が予備役となった昭和14年1月の時点で、東條は陸軍人事に直接は関与しない陸軍航空総監であり、前田の予備役編入に関与した形跡は特にない。陸軍で人事畑が長かった額田坦(陸軍中将)は「加賀藩前田家当主・侯爵である前田は、その身分を鼻にかけた振る舞いが目立って陸軍部内で評判が悪く、そのために中将で予備役に編入された」という旨を述べている[137]
  19. ^ 前田利為の戦死後に、同様の状況で死亡と認定された古賀峯一は「戦地での公務死」であるにもかかわらず「殉職」とされた。
  20. ^ ただし田中は1965年(昭和40年)の「文藝春秋」において、東京裁判における自身の証言の真の目的は「天皇をこの裁判に出さずに無罪にし、国体を護持する」ことだったとしている[142]
  21. ^ 映画「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」より。なお、松岡洋右も日米開戦前に行ったハワイでの講演会において、同様の発言をしている。
  22. ^ 英機の嫡孫である英勝も就職に苦労し、陸軍運輸部と戦争中に関係のあった西武運輸の温情により同社に入社できた[178]

出典

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