東條英機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/28 05:07 UTC 版)
評価
批判的な評価
政治姿勢に対する批判
自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、逓信省工務局長・松前重義が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等など、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)[148]。
「カミソリ東條」の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされたが、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった東條を人前でも平気で「東條上等兵」と呼んで馬鹿にすることしばしばであった。スケールの大きな理論家肌の石原からすると、東條は部下に気を配っているだけの小人物にしか見えなかったようである。戦時中の言論統制下でも、石原は東條について容赦なく馬鹿呼ばわりし、「憲兵隊しかつかえない女々しい男」といって哄笑していた。このため石原には東條の命令で常に内務省や憲兵隊の監視がついたが、石原の度量の大きさにのまれて、逆に教えを乞う刑事や憲兵が多かったという(青江舜二郎『石原莞爾』)。
また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「あなたと東條は意見や思想上、対立していたようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか」と答えている。東條と石原を和解させ、石原の戦略的頭脳を戦局打開に生かそうと、甘粕正彦その他の手引きで、1942年(昭和17年)末、両者の会談が開かれている。しかし会談の冒頭、石原は東條に「君には戦争指導の能力はないから即刻退陣しなさい」といきなり直言、東條が機嫌を悪くして、会談は空振りに終わった。
その他・国内での批判など
秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。
司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」[149]中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。
元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている[150]。
福田和也は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理の値打ち』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下への優しい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。
半藤一利は「昭和の陸軍の持っていたあらゆる矛盾が彼のもとに集約されていうな、そんな印象を受けます」と著書内で評している。
保阪正康は、生前の木戸幸一に取材し、「なぜ、東條や陸海軍の軍事指導者はあんな戦争を一生懸命やったのか」と書面で質問し、その答えの中に「彼らは華族になりたかった」とあった。満州事変の関東軍の司令官の本庄繁は男爵になっている。東條たちは爵位がほしかった。それが木戸の見方だったと述べている[151]。
好意的な評価
昭和天皇からの信任
『昭和天皇独白録』には、下記のように東條を評価する言が多くみられる。
原剛と秦郁彦は、昭和天皇が東條を評価・信頼した理由を下記のように分析している[12]。
日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれが窺える(ただし、日米開戦日に皇居の方角に向かって号泣していたことについて、君臣の考えが一致したことに感激して泣いたように語っていたとの主張もある)。
昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、軍律裁判よる全員の処刑を主張する参謀本部に反対したこと(昭和天皇独白録「十七年四月米飛行士を処罰した時も、彼の意見で裁判に附する事にしたので、全部死刑にすると云ふのを、東條が反対して一番責任のある三人を銃殺にし、他は勅許により無罪にした。之が彼が参謀本部と妥協した結果であって、実際は、あの飛行機から射撃した場処には、高角砲か高射機関銃があったらしいから、三人の者も責任がなかったものと思ふ」)、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。
『昭和天皇独白録』には、昭和前期の多くの政治家・軍人に対し、昭和天皇の厳しい評価が記述されているが(例えば、石原莞爾、広田弘毅、松岡洋右、平沼騏一郎、宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたかが分かる。東條は、細かく何事も天皇に報告していたと言われ、そのため天皇も東條の忠誠心を極めて信頼するようになっていったことが伺える。戦後、かなりの資産が東條家にあったことが明らかになったが、これは天皇からの下賜金・恩賜金を浪費せず、夫人が貯蓄していたものであった。
国内の好意的な評価
- 木戸幸一の評
- 「東條って人は非常に陛下の命というと本当に一生懸命になってやるわけでね、その点はある意味ではまた大変強い。東條って人はよくみんなに言われるような主戦論者でもなければ何でもないんだ。極めて事務的な男で政治家でもないんですよ」と語っている[152]。
- 重光葵の評
- 「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」[153]。
- 徳富蘇峰の評 -日露戦争指導層との対比-
- 徳富蘇峰は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物の欠乏」を挙げて、「舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない 」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「咀嚼ができないほどの、大物」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事」と断じている[154]。
- 井上寿一の評
- 井上寿一は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している[155]。
- 来栖三郎の評 -大東亜主義に対する姿勢-
- 来栖三郎は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている[156]。
- 山田風太郎の評
- 山田風太郎は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている[157]。自決未遂直後は東條を痛烈に批判した山田風太郎だが(「東條英機自殺未遂事件#反応」を参照)、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。
- 東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。
- GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。
- 敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。
- 西部邁の評
- 西部邁(評論家)は2017年の著書で「(靖国)神社は「英霊」を祀る場所であり、そして「英(ひい)でた霊」とは「国家に公式的な貢献をなして死んだ者の霊」のことをさす。故東条英機をはじめとするA級戦犯と(占領軍から)烙印を押された我が国の旧指導者たちに英霊の形容を冠するのは、歴史の連続性を保つという点で、是非とも必要なことと思われる」、「A級戦犯と名付けられている(戦勝国によって殺害された)人々の霊(なるもの)が英霊でないはずがない[158]」と述べている。
外国からの好意的な評価
- レーリンクの評
- 東京裁判の判事の一人でオランダのベルト・レーリンクは著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です」と東京裁判の有様を批判している。
- その他
- イギリスのジャーナリストであるヘンリー・スコット・ストークスは、樋口季一郎、安江仙弘らと共に、多くのユダヤ人の人命を救い、アドルフ・ヒトラー(ドイツ)からの再三にわたる抗議に「当然な人道上の配慮」と一蹴した東條の功績は大きいと評している[159]。
注釈
- ^ a b c 誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている[要出典]。本籍地は東京都。
- ^ 1941年の「言論、出版、集会、結社等臨時取締法」における公事結社。詳細は「大政翼賛会」を参照
- ^ このとき、山下奉文・河辺正三らとも交流があったという[8]。
- ^ この人事については皇道派による左遷であるという見方がある[16]。
- ^ この時期の満州国経営の重要人物を一まとめにし、弐キ参スケと称すことがある。
- ^ 1937年12月のトラウトマン工作の条件が賠償を含む厳しい条件に吊り上がり、1938年の近衛文麿による「国民政府相手とせず」により日中関係が最悪になっていたが、1940年の桐工作で一時期対立していた蒋介石の国民政府との和睦を考え、「汪・蔣政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」を基にした条件が行われたが、蔣介石は中国本土への日本軍の防共駐屯には断固反対し、一方東條英機も日本軍の無条件撤退に断固反対した。
- ^ 当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。
- ^ 11月30日 東条首相拝謁時 『(前略)海軍ノ一部ニ作戦ニ就キ不安ヲ懐キ居ル者アルヤニ拝謁セラルル御話アリシトノコト(布哇作戦ノ予想ニテ犠牲ノ多カルヘキ御話ナリシカト思ハル)ニテ、首相ガ拝謁ノ時首相ニ御下問アリシ (首相)少シモ聞及無之旨奉答』[35]
- ^ 小磯が予備役のままだったためである。小磯自身は大命降下の際に現役に復帰して陸相を兼ねることを希望したが、陸軍がそれを認めなかった。
- ^ もっとも、東條とその家族の動静を追ったジャーナリストの平野素邦の著述には、東條の自殺失敗でその家族が激しい批判にさらされたことが書かれているが、裁判証言でその評判が持ち直したといったことは日本の主権回復後の著述であっても一切書かれていない[79]。また、当時毎日新聞のカメラマンであった日沢四郎は、首相当時から処刑に至るまで東條の家族に取材で会うことがたびたび会っていたが、彼の著述においても処刑前に家族の様子に変化はなかったことが記されている[80]。
- ^ いずれも「陸軍大臣東條英機」名で出されたもの。
- ^ 靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争・事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。
- ^ ただしこの時、特高警察を指揮する内務大臣は安藤紀三郎。
- ^ 本来の取り調べは警視庁の担当で、陸軍の憲兵隊ではない。東郷は中野を26日からの第83回帝国議会に登院できないよう拘束しておくことを望んだが、検事総長と警視総監は拘束しておくだけの罪状はないとしたため、憲兵隊長が中野の身柄を引き取って流言飛語の「自白」を引き出させたのである[117]。
- ^ 明治憲法下の司法制度では、各級裁判所(大審院、控訴院、地方裁判所、区裁判所)に「検事局」が付設されていた[119]。
- ^ 大日本帝国憲法第53条で定められた不逮捕特権を持つ国会議員たる中野は現行犯および内乱外患に関わる罪のいずれでもなかったため、そもそも拘留されること自体が法に反していた。
- ^ 秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版、東京大学出版会、2005年)によると、塚本清彦少佐(陸士36期・陸大52期)は、昭和16年3月に陸軍省整備局課員(戦備課)、昭和19年6月13日付で第31軍参謀、同年7月17日付で独立混成第48旅団参謀、同年9月30日(または同年7月24日)にグアム島で戦死[123]。
- ^ 前田利為が予備役となった昭和14年1月の時点で、東條は陸軍人事に直接は関与しない陸軍航空総監であり、前田の予備役編入に関与した形跡は特にない。陸軍で人事畑が長かった額田坦(陸軍中将)は「加賀藩前田家当主・侯爵である前田は、その身分を鼻にかけた振る舞いが目立って陸軍部内で評判が悪く、そのために中将で予備役に編入された」という旨を述べている[137]。
- ^ 前田利為の戦死後に、同様の状況で死亡と認定された古賀峯一は「戦地での公務死」であるにもかかわらず「殉職」とされた。
- ^ ただし田中は1965年(昭和40年)の「文藝春秋」において、東京裁判における自身の証言の真の目的は「天皇をこの裁判に出さずに無罪にし、国体を護持する」ことだったとしている[142]。
- ^ 映画「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」より。なお、松岡洋右も日米開戦前に行ったハワイでの講演会において、同様の発言をしている。
- ^ 英機の嫡孫である英勝も就職に苦労し、陸軍運輸部と戦争中に関係のあった西武運輸の温情により同社に入社できた[178]。
出典
- ^ 渡辺滋 (2019). “日本海軍における出身地と人間関係:堀悌吉中将の失脚と関連して”. 山口県立大学学術情報 12: 69 .
- ^ a b c d 半藤 2013, 位置No. 3720-4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)
- ^ “忘却の将星・多田駿:/5 2人の「英雄」に明暗 戦犯として軟禁、県史に埋もれ /岩手”. 毎日新聞 (2017年12月11日). 2021年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月11日閲覧。
- ^ “東条英機:日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)”. コトバンク. 2021年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月21日閲覧。
- ^ 『姓氏』(著者:丹羽基二、監修:樋口清之、秋田書店、1970年)p223.
- ^ 秦 2005, p. 108, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-東条英教
- ^ 須山幸雄『小畑敏四郎』芙蓉書房
- ^ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』96頁
- ^ a b 大江志乃夫『張作霖爆殺』31-48頁
- ^ 川田稔『満州事変と政党政治』p4〜p7
- ^ 川田稔『満州事変と政党政治』p6〜p11
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 半藤 2013, 位置No. 569-1024, 第一章 太平洋戦争への道-東条英機 国政、軍政、統帥の頂点に立つ
- ^ a b 藤井 2008, pp. 68–71, 第二章 社会階層を否定した軍隊-管理責任を果たさなかった指揮官
- ^ a b 秦 2005, pp. 320–328, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-2.参謀本部-B 第2期(明41 - 昭20)
- ^ 大江志乃夫『張作霖爆殺』176頁
- ^ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』107頁
- ^ 中西輝政2011「日本軍の敢闘とソ連の謀略…それは歴史の一大分岐点だった」『歴史街道』277」
- ^ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』110頁
- ^ 中田整一著「満州国皇帝の秘録」
- ^ 秦郁彦『現代史の争点』文春文庫254~255頁
- ^ 額田坦回想録23頁
- ^ 額田坦回想録79頁
- ^ Hosaka, Masayasu; 保阪正康 (2018). Shōwa no kaibutsu, nanatsu no nazo. Tōkyō. ISBN 978-4-06-512339-3. OCLC 1045484521
- ^ Hosaka, Masayasu; 保阪正康 (2005). Tōjō Hideki to tennō no jidai. Tōkyō: Chikuma Shobō. ISBN 4-480-42163-7. OCLC 62397195
- ^ 三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義』自由選書、1987年復刊(1950年GHQ発禁処分)137~138頁。
- ^ 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』、『木戸幸一日記』、『細川日記』など。
- ^ a b 戸部良一 2002, pp. 62.
- ^ 広橋眞光・伊藤隆・片島紀男『東條内閣総理大臣機密記録』480-481頁
- ^ 『昭和特高弾圧史〈知識人にたいする弾圧〉1』
- ^ 小室直樹『硫黄島栗林忠道大将の教訓』
- ^ 明治百年史叢書杉山メモ 下巻 資料解説 P6
- ^ 戦史叢書(76)大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5> P336
- ^ 『海軍大学教育』「第三章 真珠湾作戦と海大」実松譲 光人社
- ^ 『明治百年史叢書 杉山メモ -大本営・政府連絡会議等筆記- 上下巻』参謀本部編 原書房
- ^ 昭和天皇発言記録集成 下巻(芙蓉書房出版)p.96
- ^ 『東京裁判尋問調書』日本図書センター
- ^ 『小説太平洋戦争』
- ^ 児島襄『太平洋戦争 上』中公新書 (84) 312頁 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』中公新書クラレ79頁
- ^ 東条首相、満洲国を訪問 大阪朝日新聞 1943.4.2(昭和18)
- ^ 戦争指導者としての東條英機
- ^ 広橋・伊藤・片島『東條内閣総理大臣機密記録』27頁
- ^ 『東條秘書官機密日誌』128-133頁
- ^ 歴代陸軍大将全覧 昭和編 太平洋戦争期』83頁 中央新書クラレ
- ^ 額田坦回想録148頁
- ^ 『杉山メモ(下)』資料解説27頁
- ^ 『杉山メモ(下)』資料解説32頁
- ^ 額田坦回想録149頁
- ^ 細川日記180頁
- ^ 吉田裕『昭和天皇の終戦史』34頁
- ^ #波まくらいくたびぞ電子版, 位置No.4135
- ^ 太田尚樹 『東条英機と阿片の闇』 角川ソフィア文庫 ISBN 978-4044058050、230-231p
- ^ 赤松貞雄『東條秘書官機密日誌』p.160
- ^ a b c d 『額田坦回想録』
- ^ a b 『巣鴨日記』
- ^ 『東條秘書官機密日誌』160-161頁
- ^ 広橋・伊藤隆・片島紀男『東條内閣総理大臣機密記録』556-557頁
- ^ 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」増田俊也
- ^ 津野田忠重『秘録東条英機暗殺計画』
- ^ 『東条英機暗殺計画と終戦工作』(別冊歴史読本 17)新人物往来社
- ^ 保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫550頁
- ^ 『加瀬俊一回想録』
- ^ “東条元首相、戦争継続に固執 終戦直前の手記発見”. AFPBB News. AFP通信 (2008年8月12日). 2019年5月11日閲覧。
- ^ 保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫562~569頁
- ^ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P168
- ^ 広橋・伊藤・片島『東条内閣総理大臣機密記録』559頁
- ^ 1946年9月16日朝日新聞等
- ^ 『日本の100人 東条英機』
- ^ a b ロバート・J・ビュートー『東條英機(下)』第14章 名誉の失われし時(215-245頁)時事通信社 1961年
- ^ 『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫版590頁
- ^ 牛村圭『「戦争責任」論の真実』66頁
- ^ 「表情にあきらめ やせても小まめな東條」『朝日新聞』昭和22年8月5日,4面
- ^ 『東條英機と天皇の時代』(ちくま文庫 614ページ)
- ^ 『秘録 大東亜戦史』富士書苑、1953年、287頁。
- ^ 『「戦争責任」論の真実』52頁、74-75頁
- ^ 「ハル・ノートで論戦 開戦は正当 東条主張 キーナン検事尋問終る」『朝日新聞 』、1948年1月7日、東京版 朝刊。
- ^ “A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.11~昭和23.11.12(第49497~49858頁) ”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 国立公文書館. p. 358-359. 2022年12月12日閲覧。
- ^ “A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164)”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 国立公文書館. p. 82. 2022年12月12日閲覧。
- ^ 日暮吉延『東京裁判』
- ^ 平野素邦『秘録 大東亜戦史 東京裁判篇』285頁
- ^ 日沢四郎『秘録 大東亜戦史 東京裁判篇』192頁
- ^ “全共同被告にいどむ 果然、東郷証言の波乱”. 朝日新聞 朝刊: p. 2. (1947年12月20日)
- ^ 秦郁彦『東京裁判 裁かれなかった人たち』|pages=[要ページ番号]
- ^ 「東京裁判における日本の東南アジア占領問題」梶居佳広(立命館法学2012.)P.223[1]
- ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京、堺屋太一、立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p708。
- ^ “東条英機らA級戦犯の遺骨を「太平洋にまいた」公文書見つかる”. TBSNEWSDIG. TBS. 2022年12月14日閲覧。
- ^ 「遺骨物語」『秘録 大東亜戦史』 東京裁判 篇、富士書苑、301-304頁。
- ^ 猪瀬直樹著『日本人はなぜ戦争をしたか』(小学館)173-174頁
- ^ 「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」1944年7月15日付、「陸密第三〇〇四号 靖国神社合祀者の調査詮衡及上申名簿等の調製進達上の注意」1944年7月19日付[注釈 11]
- ^ a b c 戸部良一 2002, pp. 60.
- ^ 戸部良一 2002, pp. 65–66.
- ^ a b 戸部良一 2002, pp. 66.
- ^ 戸部良一 2002, pp. 67.
- ^ a b 戸部良一 2002, pp. 63.
- ^ 戸部良一 2002, pp. 63–64.
- ^ a b 戸部良一 2002, pp. 64.
- ^ 戸部良一 2002, pp. 65.
- ^ 戸部良一 2002, pp. 72.
- ^ 戸部良一 2002, pp. 68.
- ^ a b 戸部良一 2002, pp. 73.
- ^ a b 戸部良一 2002, pp. 71.
- ^ 『現代史の争点』229頁 秦郁彦 文春文庫
- ^ 『野砲四連隊史』
- ^ 井上寿一『日中戦争下の日本』 P171-172
- ^ 『東條秘書官機密日誌』34-35ページ
- ^ 『黎明の世紀』28頁
- ^ 『私の履歴書 反骨の言論人』2007年10月1日 P277
- ^ 太田、39p
- ^ 毎日新聞社編『決定版・昭和史--破局への道』『毎日新聞百年史』に詳しい海軍側の証言『証言 私の昭和史』学芸書林、陸軍側の証言『現代史の争点』文藝春秋
- ^ 兵役法中改正法律 - 会議録一覧 | 日本法令索引
- ^ 太田、221p
- ^ 『高松宮日記 第7巻』522頁 1944年(昭和19年)7月補記欄 中央公論社
- ^ 秦郁彦『現代史の争点』文春文庫243頁
- ^ 『二等兵記』東海大学出版
- ^ a b c 半藤 2013, 位置No. 802 - 834、東条英機-国政、軍政、統帥の頂点に立つ:懲罰召集の恐怖
- ^ 保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79頁
- ^ 『日本憲兵正史』p.716下
- ^ 保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79-80頁
- ^ “真相はかうだ. 第1輯”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 国立国会図書館. p. 8コマ(原本p.4). 2022年12月14日閲覧。
- ^ “司法官採用に関する戦前の制度”. 弁護士山中理司(大阪弁護士会所属)のHP. 2022年1月1日閲覧。
- ^ 秦郁彦『現代史の争点』210頁文藝春秋
- ^ 纐纈厚『憲兵政治』p.97, 新日本出版社、2008年、ISBN 9784406051170
- ^ 吉松安弘『東條英機 暗殺の夏』
- ^ a b 秦 2005, p. 103, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-塚本清彦
- ^ a b c 半藤 2013b, 位置No.3178-3248、第4章 盧溝橋事件から支那事変へ:西尾寿造 - 初代支那派遣軍総司令官
- ^ “開戦2日前、東條はなぜ寝室で号泣したのか…「昭和の怪物 七つの謎」(週刊現代)”. 講談社. 2021年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月31日閲覧。
- ^ “「満州事変」石原莞爾は悲劇の将軍か”. 日経BizGate. 日本経済新聞社 (2018年9月18日). 2022年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月4日閲覧。
- ^ 半藤 2013, 位置No. 693 - 744、東条英機-国政、軍政、統帥の頂点に立つ:「戦陣訓」の全軍示達
- ^ 早瀬利之(石原莞爾研究家) (2021年8月22日). “「オレを戦犯にしろ」 終戦後「東久邇宮内閣」を生んだ「石原莞爾」最期の日々”. デイリー新潮. 新潮社. 2022年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月6日閲覧。
- ^ 角田房子 1980, p. Kindle729.
- ^ a b 保阪正康 2005, p. 226.
- ^ 保阪正康 2005, p. 228.
- ^ 戦史叢書82 1975, p. 148.
- ^ 昭和史の天皇4 2012, p. 205.
- ^ a b c 藤井 2015, pp. 193–197, 内地にあった司令官:調整弁となる要塞司令官
- ^ “戦略の天才・石原莞爾を「超二流」で挫折させた陸軍人事|生かす人材”. 日経BizGate. 日本経済新聞社 (2021年9月27日). 2021年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月4日閲覧。
- ^ 中日新聞2009年12月7日 朝刊「陸軍中将が太平洋戦争を批判 平林師団長、将校40人の前で演説」
- ^ a b c d e f 半藤 2013, 位置No. 2619 - 2671、前田利為ーボルネオで「陣没」した加賀の殿様
- ^ 『ある華族の昭和史』146頁
- ^ 『陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期』中公新書クラレ 249-252頁
- ^ 『現代史の争点』
- ^ 昭和天皇独白録103頁
- ^ 田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」(40.8)『「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻』文藝春秋 1988年
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<2> 」朝雲新聞社 1973年、147頁
- ^ 亀井宏「にっぽんのヒトラー 東條英機 下巻 その等身大の生涯と軍国日本」 潮書房光人社、149頁
- ^ C.W.ニミッツ 「ニミッツの太平洋海戦史 」恒文社 1962年、407頁
- ^ 戦史叢書48 1971, p. 352
- ^ 額田坦 『額田坦回想録』(芙蓉書房出版、1999年)、163頁
- ^ 『秘録・石原莞爾』
- ^ 『小説新潮』第26巻第4号、1972年4月。新潮文庫 『歴史と視点』 新潮社 ISBN 978-4101152264 に収められている。
- ^ 阿川弘之『軍艦長門の生涯』
- ^ 2018年4月18日中日新聞朝刊「変革の源流」第2部1
- ^ 昭和42年、木戸幸一本人へのインタビューにて。
- ^ 小林よしのり『いわゆるA級戦犯 ゴー宣 special 』P192、幻冬舎 2006年6月 ISBN 4344011910
- ^ 徳富蘇峰『終戦後日記IV』25-27頁
- ^ 井上寿一『日中戦争下の日本』 P172 ,P186
- ^ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P174
- ^ 『戦中派不戦日記』9月17日
- ^ 西部邁『ファシスタたらんとした者』中央公論新社、2017年、368-369頁。
- ^ ヘンリー・スコット・ストークス 著、藤田裕行 訳『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』祥伝社、2013年12月2日、200-203頁。ISBN 9784396113513。
- ^ a b 『敗因を衝く 軍閥専横の實相』田中隆吉 山水社(1946年1月20日)134p
- ^ a b c d e f 保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫62 - 63頁
- ^ a b c d “【正論】杉原千畝は有名なのに…樋口季一郎中将はなぜ忘却されたのか 新潟県立大学教授・袴田茂樹”. 産経新聞 (2017年9月26日). 2019年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年9月20日閲覧。
- ^ 秦 2005, p. 108, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-東条英機
- ^ 太田、68p
- ^ 平岩米吉『猫の歴史と奇話』
- ^ 秘書官赤松貞雄の回想『東條秘書官機密日誌』39頁
- ^ 広橋・伊藤・片島『東條内閣総理大臣機密記録』492頁
- ^ NHK、歴史秘話ヒストリア 「特攻 なぜ若者は飛び立ったのか」2019年12月11日、33分 (原出典は『東條内閣総理大臣機密記録』)
- ^ a b c 小室直樹『『大東亜戦争、こうすれば勝てた』138頁
- ^ a b c 篠原正瑛『ドイツにヒトラーがいたとき』121-122頁
- ^ 週刊ポスト2017年12月1日号
- ^ 『世紀の遺書』巣鴨の章
- ^ 『昭和良識派の研究』保阪正康 光人社FN文庫 56頁
- ^ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』141頁
- ^ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』154頁
- ^ 仲人は服部卓四郎夫妻(佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』239頁)
- ^ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』250頁
- ^ a b “戦争の有名人 その子孫たちは「いま」【第1部】東條英機 松岡洋右 廣田弘毅……「戦犯の家族」と呼ばれてその名前を恨んだこともありました(週刊現代)”. 現代ビジネス. 講談社 (2015年8月17日). 2022年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 法廷証第128号: [東條英機關スル人事局履歴書]
- ^ 『官報』1905年05月30日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1908年03月23日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1913年05月21日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1918年07月11日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1923年12月06日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1928年10月05日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1933年04月10日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1936年12月29日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1940年08月13日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1942年09月21日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1913年06月02日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1920年06月26日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1928年10月01日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1940年09月13日 敍任及辭令
- ^ 『官報』第3395号「叙任及辞令」1938年5月2日。
- ^ 『官報』第4106号「叙任及辞令」1940年9月11日。
- ^ a b 『官報』第4343号「叙任及辞令」1941年7月1日。
- ^ 『官報』1942年02月12日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1942年09月16日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1943年06月05日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1943年07月30日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1940年1月24日 敍任及辭令
- ^ 『官報』1942年02月24日 敍任及辭令
- ^ 「長谷川清外三十一名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504700
固有名詞の分類
- 東條英機のページへのリンク