東京都立上野高等学校
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施設
- 現校舎は本棟、別棟、体育館棟、グラウンドからなる。体育館を除き土足。
- 本棟は地上5階、地下1階(傾斜地にあるため実際は半地下)。
- 地下1階に駐輪場。
- 別棟1階に自習室。自習室は180人まで収容、平日19時まで利用可。
- 本棟屋上にプール。
- グラウンド2面。グラウンドが狭いため運動会は外部の公共施設を利用して開催。
- 別棟に図書館や視聴覚室(320人まで収容)など。
- 校外施設として、公益財団法人上高会が長野県東御市に上ノ原山荘を所有・管理。本校関係者が利用可。
校訓・教育目標
本校の校訓は、初代校長高藤太一郎が大正デモクラシーの精神を汲んで定めた簡潔な標語であり、全日制・定時制・通信制に共通である。この校訓を土台にして、課程や時代に応じてそれぞれ具体的な教育目標が定められた。
校訓
- 「自主協調」
- 「己を持するや自主、他と共にするや協調」の根本に立ち、個性の伸長に努め、自主的に行動するとともに、人格と人権を尊重して互いに協力し合う態度を身に付けさせる。さらに自律的な態度を伸長するとともに、規範意識を高め、社会の一員として社会に貢献できる人間の育成を目指す。
- 「叡智健康」
- 高い知性と豊かな情操を養い、自ら学び考え行動する創造力を身に付けさせるとともに、体力を向上させ、社会の発展に貢献し得る心身共に健康な人間の育成を目指す[10]。
教育目標(全日制・進学アドバンス校指定後)
- 校訓「自主協調」「叡智健康」のもと、「学力」「進学実績」「人間性」の三つの向上を目指す。
- さらに、東京都立上野高等学校は、「地域・東京を代表する進学校」「名門校の復活」を目指す。
- 「名門校の復活」とは、社会を牽引するリーダーを育成することを意味する。
教育目標(定時制・閉課程まで)
- 知性と情操に基づく個性の確立を図る。
- 自主的な意志による積極的な行動を促進する。
- 勉学と勤労を貴び、生涯にわたる学習の基礎を培う。
目指す学校像(通信制・閉課程まで)
通信制課程の特徴を生かし、生徒のライフスタイルや将来像に応じて、学習支援や進路指導を充実させ、不登校・中途退学などの教育課題の解決を図るとともに、通信制課程の特徴を積極的に生かすことを目的として入学する生徒一人一人の自己実現を図る。そのためにカリキュラムの改善、情報通信技術等を活用した学校運営等の改善等を図り、時代に即応した新しいタイプの通信制課程の学校づくりを推進する。
- 生徒のライフスタイルや学校教育に対するニーズに応じた教育サービスのできる学校
- 基礎的・基本的な学力を身につけ、社会人としての教養や判断力を身につけ、豊かな人間性を育む学校
- 生徒の実態に応じた進路実現を果たす学校
- 通信制課程の特色を生かし、定通が一体となった教育を推進する学校
沿革
- 1924年(大正13年) - 第二東京市立中学校として開校
- 1926年(大正15年)5月12日 - 東叡山寛永寺護国院より、現所在地台東区上野公園10-14 敷地譲受決定。
- 1927年(昭和2年)東叡山寛永寺護国院より同敷地譲受、校舎(旧校舎)建築開始。
- 1928年(昭和3年)
- 3月23日 - 校舎落成。
- 11月11日 - 平林寺に体育園完成。
- 1934年(昭和9年)4月27日 - 創立十周年記念式典挙行。
- 1935年(昭和10年)3月20日 - 併設の夜間中学が東京市に移管され、東京市立上野中学校として開校。
- 1943年(昭和18年)7月1日 - 都制施行により、東京都立上野中学校の昼間部と夜間部となる。
- 1947年(昭和22年) 4月1日 - 学校教育法施行に伴い併設中学校設置。現在の台東区立上野中学校[12]。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)4月1日 - 男女共学開始。
- 1950年(昭和25年)
- 1952年(昭和27年) - 学区合同選抜制度導入。
- 1958年(昭和33年) 4月16日 - 食堂開始(全日制用)。
- 1960年(昭和35年) - 「荒川分校」が独立して東京都立荒川高等学校(後の東京都立荒川工業高等学校)となる。
- 1961年(昭和36年)4月1日 - 補習科設置。
- 1966年(昭和41年)10月8日 - 長野県小県郡東部町に上ノ原山荘竣工。
- 1967年(昭和42年)- 学校群制度が施行され、白鷗高校と52群を組む。補習科廃止。
- 1969年(昭和44年)- 学校内民主化を目的に学園紛争(学生運動)発生。生徒と教員の間の話し合いで解決。制服廃止、生徒会廃止、代わって有志制度[13]開始。定期テストが廃止され、自主ゼミ開始[14]。
- 1973年(昭和48年)
- 2月28日 - 食堂閉鎖(全日制用)
- 6月30日 - 体育園を平林寺に返還。
- 1974年(昭和49年)4月 - 通信制用託児室開設。
- 1982年(昭和57年) - 学校群制度が廃止され、グループ選抜制度に移行。51グループに所属する。
- 1985年(昭和60年) - 旧校舎の老朽化により改築決定。
- 1990年(平成2年)- 体育館を含む新校舎(現校舎)完成。
- 1994年(平成6年)- 単独選抜に移行。
- 2000年(平成12年)11月 - 教育改革国民会議による学校視察。
- 2003年(平成15年) - 文部科学省により学力向上フロンティア・ハイスクールに指定される[5][6]。
- 2004年(平成16年)- 創立80周年記念式典挙行。
- 2004年(平成16年)- 東京都教育委員会により、東京都の重点支援校に指定される。
- 2005年(平成17年)- 通信制が一橋高校通信制へ移転される。
- 2006年(平成18年)- 通信制一橋分校閉課。標準服導入。
- 2009年(平成21年)3月 - 定時制閉課。
- 2011年(平成23年)- 東京都教育委員会により東京都の重点支援校に再指定される[7]。
- 2014年(平成26年)4月 - 東京都教育委員会により「東部地域の進学校の充実」、「かつての名門校の復活」を目的に進学アドバンス校に指定される。
- 2015年(平成27年)1月 - 創立90周年記念式典挙行。
- 2016年(平成28年)4月
- 71期生から制服導入。
- 東京都教育委員会により英語教育推進校に指定される。
- 2018年(平成30年)4月18日 - 当校勤務の教諭(当時47)が児童売買で逮捕される。
- 2019年(令和元年)5月 - 東京都教育委員会により進学アドバンス校に再指定される。
- 2022年(令和4年)- 東京都教育委員会により英語教育研究推進校に指定される。[11]
- 2023年(令和5年)4月1日 - 東京都教育委員会より進学指導推進校に指定される。[15]
- ^ 東京都立上野高等学校
- ^ http://save-teiji.a.la9.jp/ueno-yousei.htm
- ^ 『東大合格高校盛衰史』小林哲夫著、光文社新書
- ^ 例として、本校の一般入試でほぼ全入だった世代が卒業した2007年から2009年に、3年連続で東京芸術大学合格者が順に2名、1名、1名出ている(浪人を含む)。近年では2016年から2018年にやはり3年連続で1名、3名、1名の同大学合格者が出ている(過去の本校HP進路実績から)
- ^ a b 文部科学省「学力向上フロンティアハイスクール事業」について(平成15年度新規事業)東京都立上野高等学校
- ^ a b 文部科学省 平成15年度より「学力向上アクションプラン」
- ^ a b 東京都立上野高等学校重点支援校指定・再指定、東京都教育委員会
- ^ 都立上野高等学校学校案内 平成31年度版
- ^ 東京都立上野高等学校を進学アドバンス校に再指定
- ^ 教育目標・カリキュラム | 東京都立上野高等学校
- ^ a b 沿革 | 東京都立上野高等学校
- ^ 学校沿革史 台東区立上野中学校
- ^ 特色 | 東京都立上野高等学校
- ^ 自主ゼミ快調 東京・上野高の一年 明るさ増した生徒『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月10日朝刊 12版 22面
- ^ 東京都教育委員会. “都立高校における進学指導重点校等の指定について|東京都教育委員会ホームページ”. 東京都教育委員会ホームページ. 2023年3月25日閲覧。
- ^ 上野高等学校|東京都教育委員会
- ^ 東叡会
- ^ 公益財団法人 上高会
- ^ 『週刊文春』2019年6月13日号 p.23
- ^ 『週刊新潮』2019年6月13日号 p.22
- ^ 東京都交友会会報第276号
- ^ 地域雑誌『谷根千』90号の表紙裏
- ^ 菅原亮芳、「昭和戦前期「夜間中学」史試論 : 基礎的資料の整理を手がかりに」『日本の教育史学』 1987年 30巻 pp.79-111, doi:10.15062/kyouikushigaku.30.0_79, 教育史学会
- ^ 文部科学省高等学校教育部会(第19回)議事録
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