東京都立上野高等学校 校歌

東京都立上野高等学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 08:19 UTC 版)

校歌

この校歌は大正13年(1924年)に第二東京市立中学校として開校した当時に制定された。元は三番まであり現在の二番が三番だったが、旧二番の内容が軍国主義的であったとされ戦後になってから三番は無くなり、旧三番が二番となり現在に至る。

また、作家の森まゆみが地域雑誌『谷根千』90号の表紙裏に同校歌について以下のように書いた[22]

「驚いた。“負けた側”を讃える校歌があるなんて。徳川の世に殉じて新時代の到来に命を捧げた至誠ゆかりの地。どんなに学びの道が険しかろうと、人生波乱万丈であろうと、仁愛正義」の赤白旗を揚げた彰義隊のように、「人を頼まぬ雄々しい心」で行こう。」

作曲:田村虎蔵東京高等師範学校助教授・童謡作家/当時本校の音楽教諭)

作詞:藤村作東京帝国大学名誉教授)

特徴

  • 本校は都民に広く学問を学ぶ機会を与えるために、全日制に加えて1924年12月(当初は私設の夜間中学)から2009年3月まで定時制併設、また1948年2月から2006年3月までは通信制も併設されていた。3つの課程が併設されていた高校は当時都内で本校だけであった(1991年4月に新宿山吹高校が開校するまで本校が都立で唯一の通信制)。その後、都立高校統廃合により、定時制は2008年度末に閉課程(台東区の定時制は旧台東商業高校の校舎に新設された浅草高校に統合)し、通信制は2006年度をもって一橋高校に移転された。通信制の移転は新学年から順次行われ、移転中は通学先が一橋高校となったが卒業した学校(卒業証明書の発行元)は上野高校として扱われるため一橋分校と呼ばれた。
  • 本校定時制は、本校初代校長の高藤太一郎が関東大震災で被災した生徒を救うために第二東京市立中学校内に1924年12月に私設した「上野二中夜間中学」に起源を発する。当時の他の夜間中学夜学)と同様、設立当初は正式な中学校とは認められなかったが、次第にその公益性が認められ、1935年3月に東京市に移管され東京市立上野中学校として正式認定された[23]。このような経緯により、同じ校舎内に昼間部が第二東京市立中学校、夜間部が東京市立上野中学校という名称で併設されており、学校名に「上野」が付いたのは実は定時制のほうが先であった。本校にとっては認定や公立移管の有無に関わらず既に夜学の運営実績を持っていたことをもって、全日制と定時制は同じ1924年の創立としている。
  • 本校通信制は都内で最も学費の安い高校であった。例えば2004年度の通信制の学費は都立全日制の3分の1以下で、内訳は入学考査料950円、入学料500円、受講料1年生9科目で7290円、生徒会費770円、日本スポーツ振興掛金140円、本校指定体育館シューズ2000円、教科書・学習書2~3万円で、合計年間4~5万円程度であった。また、子育て中の生徒の支援のため乳幼児用の託児室もあり、月2回から3回のスクーリング(登校日)時の託児室利用料はわずか年間600円であった。2003年度には20名の生徒が託児室の利用登録していた。
  • 本校通信制は卒業までの在籍年数の上限を設けていなかった。そのため、毎年受講料を納め続けて卒業せずに10年も20年も在籍している生徒がいた。本校通信制を一橋高校に移転する際に上限が6年と定められ、現在はそのような長期在籍生徒はいなくなっている[24]
  • 東京都立上野高等学校は2つ校庭を持っている。一つは校舎の隣にある第一グラウンド。もう一つは道路(公道)を挟んで向かい側にある第二グラウンド。校舎から第2グラウンドへは道路上に架けられた歩道橋を使って行くことができる。その道路上に町丁目境界が敷かれているため、校舎側の第一グラウンドの「台東区上野公園」の住所に対して、第二グラウンドは「台東区池之端4丁目」の住所を持つ。

過去の施設

  • 東京都立上野高等学校の現校舎の通用門は、旧(前)校舎時の正門であった。旧校舎存在時、正門を入ると、大銀杏が左側に、旧校舎は右側に位置していた。
  • 開校時、生徒の体格・体力の向上を教育目標に掲げていたが、グラウンドが狭く十分な運動ができなかった。交渉の結果、埼玉県新座市平林寺が所有する土地を借りることができ、1928年(昭和3年)に体育園を建設した。寺の周囲には青少年を誘惑するものがなく精神の修養にも良いとされた。体育園の敷地は野火止用水に沿って陣屋通りを挟んで南北に分かれ、北側に合宿所、南側に運動場があった。名目は昭和天皇即位を記念しての建設事業であった(同様の記念事業は日本各地で行われた)ため、当初の正式名は「御大典(ごたいてん)記念第二東京市立中学校体育園」であった。戦後、名称から御大典記念を外し、「上野高校体育園」として引き続き運動会や部活の合宿等に利用していた。しかし寺側との戦前の借地約束の有効性のトラブルから裁判となり、敗訴し1973年(昭和48年)に寺に敷地を返還した。合宿所跡にはその後カエデが多数植えられ、今では平林寺境内の紅葉の名所となっている。

  1. ^ 東京都立上野高等学校
  2. ^ http://save-teiji.a.la9.jp/ueno-yousei.htm
  3. ^ 『東大合格高校盛衰史』小林哲夫著、光文社新書
  4. ^ 例として、本校の一般入試でほぼ全入だった世代が卒業した2007年から2009年に、3年連続で東京芸術大学合格者が順に2名、1名、1名出ている(浪人を含む)。近年では2016年から2018年にやはり3年連続で1名、3名、1名の同大学合格者が出ている(過去の本校HP進路実績から)
  5. ^ a b 文部科学省「学力向上フロンティアハイスクール事業」について(平成15年度新規事業)東京都立上野高等学校
  6. ^ a b 文部科学省 平成15年度より「学力向上アクションプラン」
  7. ^ a b 東京都立上野高等学校重点支援校指定・再指定、東京都教育委員会
  8. ^ 都立上野高等学校学校案内 平成31年度版
  9. ^ 東京都立上野高等学校を進学アドバンス校に再指定
  10. ^ 教育目標・カリキュラム | 東京都立上野高等学校
  11. ^ a b 沿革 | 東京都立上野高等学校
  12. ^ 学校沿革史 台東区立上野中学校
  13. ^ 特色 | 東京都立上野高等学校
  14. ^ 自主ゼミ快調 東京・上野高の一年 明るさ増した生徒『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月10日朝刊 12版 22面
  15. ^ 東京都教育委員会. “都立高校における進学指導重点校等の指定について|東京都教育委員会ホームページ”. 東京都教育委員会ホームページ. 2023年3月25日閲覧。
  16. ^ 上野高等学校|東京都教育委員会
  17. ^ 東叡会
  18. ^ 公益財団法人 上高会
  19. ^ 週刊文春』2019年6月13日号 p.23
  20. ^ 週刊新潮』2019年6月13日号 p.22
  21. ^ 東京都交友会会報第276号
  22. ^ 地域雑誌『谷根千』90号の表紙裏
  23. ^ 菅原亮芳、「昭和戦前期「夜間中学」史試論 : 基礎的資料の整理を手がかりに」『日本の教育史学』 1987年 30巻 pp.79-111, doi:10.15062/kyouikushigaku.30.0_79, 教育史学会
  24. ^ 文部科学省高等学校教育部会(第19回)議事録






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