朝鮮の歴史 古代の朝鮮半島

朝鮮の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/05 05:24 UTC 版)

古代の朝鮮半島

衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代

紀元前1世紀頃の東正アジア諸国と漢四郡

朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[21]戦国時代は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた[22]代は遼東郡の保護下にあった[23]。秦末初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、衛氏朝鮮が成立した[24]

考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家。建国者から名乗って衛満朝鮮とも。中国を出自[注釈 4] とする中国人亡命者である衛満朝鮮半島北部に建国した。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時の紀元前108年武帝に滅ぼされた。その故地には楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を統治した。

三国時代

三国時代の朝鮮半島
新羅の冠
高句麗の系統は消滅したが、遺領は新羅(後の朝鮮民族の母体)と渤海(後の満洲民族の母体)に分割されている。

高句麗百済新羅の三国が並立。660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林州都督府とした。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から冊封を許された。

伽耶諸国は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国連盟を指す。伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、広開土王碑文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては任那という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている[27]。伽耶諸国の地域(半島南部)は史書[28] や碑文[29] の記録から日本(ヤマト王権)の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡って多くの説が存在する。宋書倭国伝では478年、倭王武が宋の順帝に上表文を奏上し「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任命されたと記されており、倭が六国の諸軍事に少なくとも影響力を行使している状況を認めている。詳細は伽耶任那を参照。[注釈 6]
耽羅は498年百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属した。938年に高麗に服属した。1105年に「耽羅郡」で、1108年「済州郡」に改称、ここで「耽羅国」としての歴史は途切れた。
于山国は6世紀初めに新羅に服属した。
唐朝新羅を領土化するために設置した地方機関。都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に都督府を設置する統治制度。
唐朝が設置し現在の朝鮮半島北部から中国東北部に相当する高句麗旧域の経営を目的に設置された地方機関。
唐朝が設置し、現在の忠清南道に相当する百済旧域の経営を目的に設置された地方機関。

5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している[30]

統一新羅時代、或いは南北国時代

新羅による三国統一後、ほぼ同時期に渤海が旧高句麗の支配地域に建国され、両者は渤海が滅亡するまで並立していた。ただし、渤海を朝鮮の歴史の一部とみなすべきか否かについては賛否両論があり、渤海を朝鮮史の一部とする1975年以降の韓国では統一新羅・渤海並立時代を「南北国時代」と称しているが[注釈 7]、渤海を朝鮮史へ組み込むことに否定的な日本・中国などでは「統一新羅時代中国語版記事)」と称される。

後三国時代

新羅・後高句麗・後百済の三国が並立。最終的に後高句麗を継承した高麗によって統一された(936年)。


注釈

  1. ^ 日本列島内に所在すると見る説もあり、丹波国(→上垣外2003 p.70)、但馬国肥後国玉名郡などに比定する説がある。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか西域の楽神の乾闥婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もある(→井上訳注1980 p.35)。『三国遺事』では龍城国とされる。
  2. ^ 箕子朝鮮の建国者である箕子については、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮・・・」とあり、殷を出自とする中国人となる。
  3. ^ 後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満箕子朝鮮を滅ぼした際に箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。
  4. ^ 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、燕を出自とする中国人となる。
  5. ^ 三国志』魏書辰韓伝「辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している)」によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という。また、『北史』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている)」との記述がある[25]水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている[26]
  6. ^ 日本書紀によると、『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載されるなど、任那は日本の影響下にあったとされる。
  7. ^ 北朝鮮も渤海を朝鮮の歴史の一部とみなしているが、「南北国時代」なる用語は使わず「渤海及び後期新羅時期」と表記している。

出典

  1. ^ a b 早乙女 2000, pp. 3-4
  2. ^ a b 早乙女 2000, p. 7
  3. ^ a b 朝鮮史研究入門 2011, p. 14
  4. ^ 松井裕之, 多田隆治, 大場忠道、「最終氷期の海水準変動に対する日本海の応答 塩分収支モデルによる陸橋成立の可能性の検証」 『第四紀研究』 1998年 37巻 3号 p.221-233, doi:10.4116/jaqua.37.221
  5. ^ a b 早乙女 2000, p. 17
  6. ^ 早乙女 2000, p. 18
  7. ^ a b c d 朝鮮史研究入門 2011, p. 19
  8. ^ 早乙女 2000, pp. 20-21
  9. ^ a b 早乙女 2000, p. 45
  10. ^ a b c 早乙女 2000, p. 51
  11. ^ 早乙女 2000, p. 54
  12. ^ a b 早乙女 2000, p. 57
  13. ^ 早乙女 2000, p. 64
  14. ^ 早乙女 2000, p. 72
  15. ^ a b 小片丘彦「朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴」『鹿児島大学歯学部紀要』 (18), 1-8, 1998
  16. ^ 三国志
  17. ^ 朝鮮史研究入門 2011, p. 45
  18. ^ 吉田孝『日本の誕生』岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。ISBN 4-00-430510-1  pp.74-78.
  19. ^ 『任那興亡史』31P-200P
  20. ^ 『朝鮮史』武田幸男編184頁
  21. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42
  22. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.22
  23. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.23
  24. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27
  25. ^ 『北史』新羅伝
  26. ^ 『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁
  27. ^ 鈴木靖民ほか著『伽耶はなぜほろんだか』<増補改訂版>、大和書房、1998 ISBN 4-479-84047-8(初版1991)
  28. ^ 『三国志』東夷伝、『宋書』夷蛮伝
  29. ^ 広開土王碑
  30. ^ 拳骨拓史『日中韓2000年の真実』扶桑社新書
  31. ^ 『高麗史』一百四 列伝 巻十七 金方慶伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。..(中略)..用本國船様督造。」
  32. ^ 『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」
  33. ^ 朝鮮大飢饉新聞集成明治編年史第一卷、林泉社、1936-1940
  34. ^ 国号改称(明治43年8月勅令318号)- 韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件ヲ裁可シココ二之ヲ公布セシム韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今(じこん)朝鮮ト称ス
  35. ^ 国定教科書の「1948年建国」は抗日・臨時政府の否定ハンギョレ2015年11月9日付記事)]
  36. ^ 今日の歴史(1月7日) 聯合ニュース 2009/01/07
  37. ^ 今日の歴史(12月6日) 聨合ニュース 2008/12/06
  38. ^ 南北首脳、板門店で会談 正恩氏、軍事境界線越える”. 朝日新聞 (2018年4月19日). 2018年4月28日閲覧。
  39. ^ 日本放送協会 (2023年8月18日). “日米韓首脳会談 日本時間の19日未明から【各国のねらい解説】 | NHK”. NHKニュース. 2023年9月8日閲覧。
  40. ^ 南北首脳、板門店で会談 正恩氏、軍事境界線越える”. 朝日新聞 (2018年4月27日). 2018年4月28日閲覧。
  41. ^ 「完全非核化」目標、年内に終戦 南北首脳が板門店宣言”. 朝日新聞 (2018年4月27日). 2018年5月1日閲覧。
  42. ^ 「朝鮮半島の非核化に尽力」、南北首脳が共同声明 AFP BB NEWS Japan 2018年4月27日
  43. ^ “「板門店宣言」の全文を、取り急ぎ日本語に訳してみました”. ハフポスト. (2018年4月27日). https://www.huffingtonpost.jp/entry/panmunjeonm-koreasummit_jp_5c5b7bdbe4b0faa1cb67fee4 2018年4月28日閲覧。 
  44. ^ 日本放送協会 (2023年9月7日). “ロシアと北朝鮮 2回目の首脳会談へ “ロシア極東開催で調整” | NHK”. NHKニュース. 2023年9月8日閲覧。





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