掛布雅之 来歴

掛布雅之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 02:16 UTC 版)

来歴

プロ入り前

生い立ち

かつて実家があった場所で営業する磯丸水産千葉中央駅前店(2021年9月21日撮影)

実母の郷里である新潟県三条市で出生。その母の実家の数軒隣りにジャイアント馬場(馬場正平、プロ野球読売ジャイアンツからプロレスラーへ転向)の実家があったと言う[5]。その後、1歳頃から、実父の郷里である千葉市(現在の中央区新宿)で生活[6][7]。珍しい「掛布」姓のルーツは、祖父の出身地・愛知県犬山市辺りにあるのではないかと話している[6]。「雅之」と言う名前は、実父が俳優森雅之の大ファンだった事から名付けられた[6]

実父(2006年永眠)[8]は、第二次世界大戦の前に一時、千葉県千葉商業学校教員の立場で硬式野球部の部長と監督を兼務していた。野球部を甲子園球場での全国大会出場に手の届くレベルへ引き上げたものの、後に諸事情で野球と縁を切っていた[7]。大戦中に中国へ渡ると、終戦を機に郷里へ引き揚げ。職業を転々とした後に、料理店を営んだ[7]。なお、実家があった場所は現在、磯丸水産千葉中央駅前店の敷地になっている。

学生時代

幼少期に剣道を始めると、警察署で稽古に励んでいた。しかし、小学生時代に防具の購入を両親に頼んだところ、両親に拒否されたためやむなく辞めている。実父が第二次世界大戦の後に新制中学校の軟式野球部で監督へ復帰した時期に、実父の下で野球を始める。なお、この時期については、「利き手だった右手を実父から左手に矯正された」という記述の文献が多く見られる。ただし実際には、ペンを持つ時に右手[9]、箸を持つ時に左手を使用[10]。雅之自身も、上記の記述を否定したうえで、「右投げ左打ちになった理由はよく分からない」と述べている[11]

千葉県内にある習志野市立習志野高校への進学後は、石井好博監督の下で、2年時の1972年に「4番・遊撃手」として夏の選手権千葉大会で優勝。当時は都道府県ごとに甲子園球場での全国大会への出場校を決める体制になっていなかったため、代表校を決める東関東大会へ進出したところ、銚子商との決勝戦で根本隆から先制打を放った末にチームを全国大会へ導いた。もっとも、全国大会では、東洋大姫路高の前に初戦で敗退[12]。3年時の1973年夏の選手権千葉大会では、エースの古屋英夫を擁する木更津中央高と準々決勝で対戦したが、延長11回の末に1-2xでサヨナラ負けを喫した。

なお、習志野高校硬式野球部の同級生には阿部慎之助の実父がいて、掛布とともにクリーンアップを打っていた。また、1975年第56回選手権大会でエースとしてチームを初優勝に導いた小川淳司は2学年後輩で、在校中の掛布について「竹刀の袋にバットを入れて毎日自宅に持ち帰っていた」と後に述懐している[13]

学生時代からNPB入りを志望。NPBのドラフト会議を控えた1973年の秋には、実父や叔父が小川善治に対して、ヤクルトスワローズに雅之を入団させるよう掛け合った。小川が当時ヤクルトの二軍監督を務めていたことや、実父が千葉商業学校の野球部長兼監督時代に小川を指導したことによる依頼であったが、小川は依頼を固辞。そこで実父たちは、篠田仁(同校を継承した千葉県立千葉商業高校硬式野球部の元・監督)を通じて、阪神タイガースへの仲介を依頼した。仲介先が阪神であったのは、篠田が千葉商業高校監督退任後の一時期にトレーニングコーチとして在籍していたことや、この年に現役を退いたばかりの安藤統男が、かねてから篠田や掛布の叔父と懇意にしていたことによる。以上の関係を背景に、篠田の依頼を受けた安藤が雅之の入団テストを球団に申し入れたところ、会議直前の11月に甲子園球場で実施する二軍秋季練習への参加を特別に許された[14]。この練習では球団が雅之用のユニフォームを用意しなかったため、安藤が選手時代に使っていた背番号9のユニフォームを裏返しに着ながら、金田正泰監督を初めとする首脳陣の前でテストを受けていたという。結局、1週間にわたる練習の後で、当時のスカウト・河西俊雄が「大学や社会人野球のチームから勧誘されても断る」という条件で雅之に契約を打診。雅之自身も「このチャンスを逃してはいけない」との思いで打診を受け入れたことから、ドラフト会議での6位指名を経て、契約金300万円、年俸84万円(金額は推定)という条件で正式に契約した[15]。背番号は、この年まで6年間にわたってウィリー・カークランドが着用していた31。もっとも、本人は高校野球での実績がNPB入りの水準に達していないことを自覚していて、阪神への入団についても「大好きな野球をいつまでも続けられないのなら、プロ野球で終わった方が納得できる」という程度の認識しかなかったことを引退後に明かしている[16]

阪神時代

1974年には、一軍内野守備コーチに転じた安藤などから春季キャンプで徹底的な指導を受けた後に、オープン戦へ出場。初めて出場したのは対南海ホークス戦で、野崎恒男から代打で安打を放った。3月21日の対太平洋クラブライオンズ戦(鳴門球場)では、オープン戦ながら「7番・遊撃手」として初めてスタメンに起用。当時の正遊撃手だった藤田平が自身の結婚式で欠場したことによる起用だったが、太平洋のエースだった東尾修から4打数2安打を記録した。さらに、3日後の対近鉄バファローズ戦(日生球場)にも、「8番・三塁手」として再びスタメンで起用。内野の要であった野田征稔(後にマネージャー)が実母の逝去で急遽帰郷したことによる起用ながら、4打数4安打という活躍で一躍注目された[17]。結局、オープン戦で18打数8安打2二塁打という好成績を残したことから、レギュラーシーズンでも開幕から一軍に定着。高校時代までのポジションだった遊撃に藤田が定着していたことから、三塁手として中央大学からドラフト1位で入団した佐野仙好との間で、三塁のポジションを争った[18]。その一方で、ジュニアオールスターにも出場。一軍公式戦全体では3本の本塁打を放ったものの、チームの高卒新人選手による一軍公式戦でのシーズン最多本塁打(1957年並木輝男が記録した8本)には及ばなかった。

1975年には、藤田の前の正遊撃手だった吉田義男が、一軍監督としてチームに復帰。シーズン当初は、吉田の方針で右打者の佐野と併用されたため、掛布のスタメン出場は右投手の登板が予想される試合に限られていた。掛布は後に、「三塁のポジション争いで『ライバル』と感じたのは当時の佐野さんだけだった」と語っている。しかし、掛布がやがて正三塁手として定着したため、佐野は外野手に転向。掛布自身は高卒2年目にして、一軍公式戦100試合出場と2桁本塁打を達成した。

1976年には初めて規定打席に到達、王貞治を上回る打率.325(リーグ5位)を記録し、同年のベストナインに選ばれる。掛布は、「打撃ベストテンで王さんの上に立てたことが大きな自信になった」と語っている[19]。さらに翌1977年も開幕戦の対ヤクルト戦でエース松岡弘から満塁本塁打を放つ等大活躍し[20][21]、応援歌「GO! GO! 掛布」も売り出された。この人気に応援団は掛布の打席でヒッティングマーチを演奏するようになった。一説に阪神在籍選手では掛布が最初と言われる[要出典]。最初の応援歌は「GO! GO! 掛布」のサビであったが、のちに変更された。

1978年7月25日、オールスター第3戦後楽園球場)での3打席連続本塁打の大活躍でファンに存在感を見せつけた[22]

1979年にはドン・ブレイザー監督が就任、シーズンを通して3番打者、三塁手として起用される。3代目ミスタータイガースと呼ばれていた田淵幸一が移籍した後の主砲としてチーム新記録となる48本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。その後1985年にランディ・バースが54本で更新したが、日本人選手としては現在も球団記録)を放ち本塁打王となる[23]。またフェリックス・ミヤーンに次ぐ打率.327も残し、リーグを代表する強打者に成長した。シーズン終了後に結婚。

1980年には、早稲田大学の大物三塁手だった岡田彰布が入団したことから、シーズン前には三塁のポジションを岡田と争う可能性が報じられていた。このような報道に対して、既にチームの中心選手であった掛布には、岡田に対して佐野ほどのライバル意識は感じていなかったという[24]。掛布は開幕から4番打者・三塁手で起用されたが、4月18日対巨人戦(後楽園球場)で左膝を痛めた影響で、一軍公式戦への出場は70試合にまで減少。成績も前年を大幅に下回ったことから、シーズン終了後には、「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」「トレード相手は門田博光」といった内容の「スクープ」が、大阪で発行されるスポーツ紙の1面に出るまでに至った[25][26]。球団は即座に否定したものの、江夏豊や田淵幸一の放出劇がまだ記憶に新しい頃で、ガセネタでは済まされない内容であった。掛布自身も大きな衝撃を受け、そうした話が出ないようにするよう摂生に努め、翌年から1985年までは5年連続で全試合出場を果たすこととなり、トレードの話も白紙となった。

1981年は自己最高の打率.341(リーグ4位)を記録し、1982年1984年にも本塁打王、1982年には打点王に輝くなど、田淵に代わる新たな「ミスタータイガース」として人気を博した(なお、当時は移籍した田淵はミスタータイガースではないとして、掛布が藤村富美男村山実に続く3代目ミスタータイガースと呼ばれていたが、田淵が打撃コーチとして阪神に復帰して以降は、田淵を3代目、掛布を4代目と呼ぶことが増えている)。1980年代前半は不動の4番打者。また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負と言われた。1984年に本塁打王を獲得した際には中日ドラゴンズ宇野勝と激しく争い、最後の直接対決2連戦では両者が全打席で敬遠を受けてタイトルを分け合った。この敬遠の応酬についてはセ・リーグ会長が両監督(安藤統男と山内一弘)に注意し、最終的には記者団に謝罪するほどであった[27]

1985年には3番・バース、4番・掛布、5番岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、リーグ優勝日本一に貢献した。同年の対読売ジャイアンツ戦では槙原寛己からバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入ったため、賞金をもらい損ねていたが、スポンサーの計らいでもらっている)ではバースに続いて本塁打を叩き込み、この年の象徴のように語られている。また、吉田監督は日本シリーズ制覇の会見で、日本一になった要因を聞かれた際「ウチには日本一の四番(打者)がいますから」と答えている。

1986年4月20日、対中日戦でルーキー斉藤学投手から手首に死球を受けて骨折、連続出場が663試合で途切れた。後年の述懐では、この負傷でそれまで張り詰めていた緊張の糸が切れ、怪我を言い訳にする「弱い自分」が出てきてしまったという[28][29]。5月中旬に復帰するが、11日後には阪神甲子園球場の巨人戦で三塁守備の際にバウンドが変化した打球に当たって右肩を負傷し、1ヶ月近く欠場。さらに8月26日ヤクルト戦には守備中に左親指骨折で三たび戦列を離脱し、復帰できたのはシーズン終了間際だった。このシーズン後半以降、華麗なバッティングは影を潜めることとなる。

1987年は腰痛で成績が低迷し、チームの調子と歩を合わせることになった。約1ヶ月登録を抹消され、6月にはプロ入り以来初めての二軍落ちも経験した。同年3月に飲酒運転で逮捕され当時オーナーだった久万俊二郎に「大ばか野郎」「欠陥商品」と厳しく断じられた[30]。12月12日、15%ダウンとなる年俸6800万円で契約更改した[31]

1988年も故障続きでかつての打棒は甦らず、開幕から7月12日対広島戦まで先発出場を続けたが、翌13日に古谷真吾球団代表、高田順弘本部長、村山実監督と話し合って出場を見合わせ、14日に一軍登録を抹消された[32][33]。9月14日に現役引退を表明。10月10日、阪神甲子園球場でのホーム最終戦(対ヤクルト…ダブルヘッダー第2試合)が「引退試合」となり、多くのファンに見送られてグラウンドを去った。通算349本塁打は阪神の球団最多記録である。

引退に際しては、その若さを惜しんで複数の球団からオファーがあったことをのちに明かしている。ヤクルトスワローズ監督の関根潤三からは、将来は阪神に戻ってもよいという条件を示され、横浜大洋ホエールズ監督の古葉竹識からは「背番号31を用意する」と誘われた[34]長嶋茂雄からは「1年間二軍にいて、じっくりと体を鍛えて気持ちを切り替えれば」というアドバイスがあった[34]など、掛布の身の振り方を尊重した内容であったが、田淵がかつてトレードに際して「今度はお前だぞ。お前は、江夏や俺のように途中で縦縞のユニフォームを脱ぐようなことはするなよ」と言った言葉が頭にあり、現役を続けるなら阪神でなければならないと考えて固辞[34]。引退試合の後、コーチだった中村勝広から「最近は阪神の歴代の主力選手が、こんな引退試合をしたことはなかった。新しい阪神の歴史を作ったな。惜しまれながら球場全員が涙する。お前が道筋を作ったおかげで、これからはこうやって阪神の選手が辞めていくことができるだろう」という言葉をもらったと述べている[34]

現役引退後

野球解説者・評論家として

引退後は1989年から2015年までは報知新聞の野球評論家、1989年から2008年までは日本テレビ読売テレビラジオ日本の野球解説者、2009年から2012年まではMBSラジオの野球解説者(2009年のみゲスト解説、2010年から専属)、2013年から2015年まではサンテレビスカイ・エーの野球解説者を務めた。

2013年までは、アメリカマイナーリーグの臨時コーチを務めただけで、プロ野球を本格的に指導した経験はなかった。 1991年ロッテオリオンズが千葉移転の際に千葉出身の掛布が監督候補に挙がり[35]、オーナー代行重光昭夫とも一度話したことがあったが、「野球観が合わない」との理由で物別れに終わったという[36][37]

東北楽天ゴールデンイーグルスの発足当初(2004年秋)には監督の就任要請を受けたが辞退[38]。掛布自身は後に、球団オーナーの三木谷浩史と直接会談していたことを告白。自身が望む監督像をめぐって、経営上の収益が出せることを強く求めた三木谷との間で意見が食い違ったことを辞退の原因に挙げている[39][40]

指導者として

阪神DC時代
阪神DC時代
(2015年8月29日、阪神鳴尾浜球場にて)

2013年10月21日には、阪神球団からの発表で、新設のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任することが判明[41]。現役引退から25年振りに阪神へ復帰するとともに、同年11月の秋季キャンプから打撃や内野守備の指導を始めた。ただし、DCは非常勤扱い・背番号およびベンチ登録なしの特別職であるため[42]、就任後も野球解説者・評論家としての活動を継続。また、契約上ユニフォームのうちズボンの着用しか認められなかったことから、選手への指導中には球団から支給されるジャンパー、トレーニングウェア、シャツを上着に用いていた[43]

なお、現役引退当時のコーチでもあったゼネラルマネージャーの中村が2015年9月23日に急逝したことから、球団では同年10月1日付の人事異動で当面の間ゼネラルマネージャー職を廃止。この廃止を機に役職を「球団本部付育成&打撃コーディネーター」に変更した[44]

しかし、「掛布さんとは野球観が合う」という金本知憲[45]がその直後から一軍監督へ就任したことを受けて、球団社長の南信男が二軍監督への就任を要請。10月21日には、DCの立場でフェニックスリーグに帯同していた掛布が、前日(20日)にこの要請を受諾したことが一部で報じられた[46]

阪神二軍監督時代

阪神球団は2015年10月26日に、掛布を二軍監督として正式に契約[2]。翌27日には、二軍監督へ就任することや、現役時代と同じ背番号31を着用することを正式に発表した[47]。契約期間は2年で、掛布が阪神のユニフォームを正式に着用するのは、現役引退以来27年振り。阪神の選手や首脳陣が背番号31を着用するのは、林威助外野手の退団(2013年)以来2年振りであった。ちなみに、二軍監督へ就任した背景には、DC時代に中村から「(自身と同じ左打者で2014年に入団した)横田慎太郎を一人前の打者に育てて欲しい」というリクエストを受けていたことも挙げられる[48]

二軍監督の就任後は、厳しいプロ意識を若手選手に植え付けながら、選手の自主性を重んじる指導でチームの底上げに尽力[49]。DC時代から指導してきた伊藤隼太中谷将大原口文仁などを一軍へ定着させたほか、2016年の春季キャンプでは、新人外野手の髙山俊に対するマンツーマン指導によって、高山によるセ・リーグ新人王獲得への礎を築いた[50]。また、横田も同様の指導で頭角を現したため、金本は一軍のレギュラーシーズンの開幕戦から一時「1番・高山、2番・横田」というスタメンを実現させていた。

2017年には、新人内野手の大山悠輔に対して、金本による長期育成計画の下で3月から英才教育を実施[51]。大山は、7月から一軍へ昇格すると、8月終盤から一軍公式戦のスタメンで4番打者を任されている。その一方で、右打者だった大和によるスイッチヒッターへの転向や、故障で戦線を離脱していた糸井嘉男西岡剛のリハビリなど、中堅・ベテラン選手のサポートにも力を注いだ。

二軍監督への在任中は、現役時代からのネームバリューの高さを背景に、球団主催のウエスタン・リーグ公式戦で二軍なのにもかかわらず、満員札止めや1万人台の観客動員が相次いだ。2016年の終盤以降は、現役選手時代の経験から若手選手に猛練習を求める金本との間で、育成方針やウエートトレーニングに対する認識の違いが徐々に露呈[49]。阪神球団も、翌2018年に向けたチーム方針の転換や二軍首脳陣の世代交代を視野に[51]、「二軍監督としての掛布の役割は、契約期間の2年間で十分に果たされた」と判断した。このため、2017年シーズン終盤の9月8日には、同年10月31日の契約期間満了を機に二軍監督としての契約を更新しないことを通告。2018年シーズンからオーナー付アドバイザーへ就任することを要請する[52]一方で、9月10日には、2017年シーズン限りで二軍監督を退任することを正式に発表した[51]。さらに、二軍監督として最後に采配を振る主催試合(9月28日のウエスタン・リーグ対広島最終戦)で使用する球場を、阪神鳴尾浜球場(スタンドの収容人数500人)から甲子園球場(二軍戦で開放する内野スタンドに28,465席を設置)へ急遽変更[53]。平日のデーゲームにもかかわらず、7,131名もの観衆が内野スタンドで見届けたこの試合を、監督在任中最多の16得点による大勝で締めくくった。なお、試合後のインタビューでは、自身初の監督生活を「僕を若返らせてくれた2年間だったが、ちょっと短かったかな。ただ、若い選手たちが着実に力を付けてきている。その意味では、非常に濃い2年間だった」という表現で述懐。その後にナインが胴上げの場を設けようとしたが、監督在任中にチームをウエスタン・リーグ優勝へ導けなかったことを背景に、「胴上げとは勝者(優勝チームの監督)や現役を退く選手がされるものであって、自分はその身ではない」という理由で胴上げを固辞した[54]

なお、上記の最終戦の後には、掛布を支えた古屋英夫野手チーフ兼育成コーチ、久保康生投手チーフコーチ、今岡真訪打撃兼野手総合コーチが相次いで退団。この時点で掛布は二軍監督としての契約期間を残していたが、後任の監督が決まるまで山田勝彦バッテリーコーチが二軍監督代行として指揮を執った[55]。なお、2017年10月23日には、山田が2018年シーズンから一軍バッテリーコーチ、一軍作戦兼バッテリーコーチの矢野燿大が二軍監督へ異動することが球団から発表された[56]

阪神二軍監督からの退任後

2017年10月27日に、阪神球団が「オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(SEA)」という役職を新設したうえで、掛布を同年11月1日付でSEAに就任させることを発表した。掛布がプロ野球球団でフロントの役職に就くことは初めてで、チーム編成に関するオーナーへのアドバイスや(二・三軍を含む)他球団の視察などの役割を担った[3]が、契約期間の満了を機に2019年10月31日で退任。同日付で阪神球団をいったん退団した[57]

その一方で、SEA在任中の2018年シーズンからは、サンテレビ、スカイ・エー、MBSラジオ、日本テレビ読売テレビの阪神戦中継でゲスト解説者として再び出演。2020年2月14日から2週間限定で公開されている阪神タイガース創立85周年記念ドキュメンタリー映画『阪神タイガース THE MOVIE~猛虎神話集~』(製作:『TIGERS THE MOVIE』製作委員会、配給:KADOKAWA)では、阪神の関係者を代表してナビゲーターを務めている。

2020年1月からは、阪神電気鉄道(阪神タイガースの親会社)と契約したうえで、新設ポスト[58][59]の「HANSHIN LEGEND TELLER(ハンシン・レジェンド・テラー)」へ就任。NPB史上初の特別職で、野球解説者・タレントとしての活動と並行しながら、野球全般の振興に関する助言役[4]や、現役時代の活躍を知る人物が多い関西財界とのパイプ役を担う[60]。また、2015年以来5年振りに、報知新聞社野球評論家としての活動を再開している。


  1. ^ 阪神・掛布氏の呼称「DC」に決定! SANSPO.COM 2013年11月4日[リンク切れ]
  2. ^ a b 阪神掛布2軍監督が契約、金本監督サポートへ意欲 日刊スポーツ 2015年10月26日閲覧
  3. ^ a b 阪神 掛布氏がSEAに就任 初のフロント入り 存在感、発信力にも期待 - スポーツニッポン(2017年10月27日)
  4. ^ a b 【阪神】掛布雅之氏に異例の新ポスト「HANSHIN LEGEND TELLER」就任へ - スポーツ報知(2020年1月22日)
  5. ^ 国定勇人 (2013年6月11日). “君は、カケフの生まれ故郷を知ってるか?”. 三条市長日記. 2020年9月19日閲覧。
  6. ^ a b c 『猛虎が吼えた―熱球悲願』P159 - 161
  7. ^ a b c 『豪打爆発!われらが掛布雅之―背番号31はタイガースの宝だ!』講談社、1982年、P50 - 51
  8. ^ 【関西笑談】掛布さん、おやじに投げ飛ばされた「1人で野球はできない」 - 産経デジタルiza(2014年1月22日)
  9. ^ そりゃないよ…掛布2軍監督ガッカリ サインがネットオークションに
  10. ^ 掛布雅之(野球解説者)<後編>「人知れず苦しんだ“阪神の4番”」
  11. ^ 【掛布雅之のホットコーナー】遠井吾郎さんがONが味つけしてくれた野球人生 - サンケイスポーツ2016年12月9日
  12. ^ 東洋大姫路高校では、後に阪神でチームメイトになる山川猛が、この試合で満塁本塁打を放った。
  13. ^ a b c 掛布雅之×小川淳司 習志野高OB対談 「あの当時“集合”がイヤでしたね」 - 週刊ベースボールONLINE(2016年1月27日)
  14. ^ 若虎・掛布が夢を描いた橋の下 - スポーツニッポン(2018年12月9日)
  15. ^ 【安藤統男 登場】掛布の阪神入団に一役!安藤に徹底的にしごかれた!?地獄のノック!ルーキー掛布はどうだった? - YouTube
  16. ^ “掛布雅之氏、阪神入団は「野球をやめるため」だった!オープン戦の幸運で心境一転”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2023年3月4日). https://www.daily.co.jp/tigers/2023/03/04/0016107692.shtml 2023年3月4日閲覧。 
  17. ^ 【昭和の虎模様】掛布雅之氏 給料7万円、体も大きくない“テスト生”のスターへの序章
  18. ^ 掛布雅之【前編】エースの勝負球を打つ四番/プロ野球1980年代の名選手
  19. ^ 文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」文藝春秋社
  20. ^ 【4年目の開幕戦】シーズン最初の打席、最初のスイングで・・・・。 - YouTube
  21. ^ 掛布雅之さん語る「プロ4年目 初打席」の記憶 伝説のバックスクリーン3連発より鮮烈な瞬間|野球|日刊ゲンダイDIGITAL
  22. ^ [掛布雅之物語]<9>「考えろ」遠井吾郎コーチの指導で不調脱出
  23. ^ 【連続写真】阪神・掛布雅之「独特の小さな構えから体を目いっぱい使ったフルスイング」
  24. ^ 文春ビジュアル文庫「豪打列伝2」文藝春秋社
  25. ^ 「トレードなら引退」掛布は決意していた
  26. ^ 『巨人 - 阪神論』では、門田博光との「御堂筋トレード」だったと述べている(同書P180)。掛布はもしトレードが成立したら引退するつもりだったという。
  27. ^ 【10月3日】1984年(昭59) 満塁でも敬遠 宇野勝と掛布雅之 前代未聞の10連続四球
  28. ^ a b 『巨人-阪神論』P127。また、1989年に早稲田大学大隈講堂で谷沢健一(元中日)と講演会をした際には「斉藤君の制球力は知っていた。危ないぞ、来るぞ、と分かっていながら避け切れなかったのが残念だ」と語ったが恨みがましい発言はなかった。
  29. ^ 掛布氏、引退の理由明かす 「厳しい目から逃げた」 弱さを悔いる
  30. ^ 阪神の元名物オーナー久万氏、不振当時の中村勝広監督に「スカタン」デイリースポーツ2013年10月1日配信
  31. ^ 掛布“激怒”退席事件、村山「そら球団あかん」でも「掛布も堪忍してやらんと」
  32. ^ 40本塁打を放ち“日本一”から3年後、33歳での現役引退【掛布雅之・最後の1年】 | BASEBALL KING
  33. ^ 【スクープの舞台裏】33歳掛布の若すぎる引退、緊張がプツリと切れた瞬間 - プロ野球 : 日刊スポーツ
  34. ^ a b c d 『巨人 - 阪神論』P133 - 134
  35. ^ ロッテが千葉移転正式表明、名前は千葉ロッテ・オリオンズに?
  36. ^ 『巨人-阪神論』P210。
  37. ^ 掛布SEA明かす かつてロッテ&楽天から監督オファー
  38. ^ 楽天、掛布氏に監督就任を正式要請 朝日新聞 2004年10月16日
  39. ^ 『巨人-阪神論』P207 - 208。
  40. ^ 楽天球団監督に元阪神の田尾氏 掛布氏は条件折り合わず
  41. ^ 掛布雅之氏のGM付育成&打撃コーディネーター就任について阪神タイガース公式サイト 2013年10月21日配信
  42. ^ 前代未聞の超大役!阪神・掛布氏、コーチも“コーチ”する!!(『サンケイスポーツ2013年10月22日付記事)
  43. ^ a b 虎掛布DC「栄光の背番号」後継者の条件(『日刊スポーツ2013年11月5日付記事)
  44. ^ 阪神がGM制廃止 10月1日付の異動で、掛布氏は本部付に(『スポーツニッポン2015年9月30日付記事)
  45. ^ 再建へ金本新監督とタッグ!掛布氏2軍監督就任、28年ぶり縦じま(『スポーツニッポン2015年10月21日付記事)
  46. ^ 掛布DCが阪神2軍監督「断る理由はないからね」(『日刊スポーツ2015年10月21日付記事)
  47. ^ 金本監督背番号6、掛布二軍監督は31/阪神組閣一覧(『日刊スポーツ2015年10月27日付記事)
  48. ^ 阪神に“掛布二世”の長距離砲を──。中村GMが次代に託したチームの未来。(『NumberWeb2016年9月8日付記事)
  49. ^ a b 阪神・掛布二軍監督、今季限りで退任 考え方に隔たり…金本監督と並び立たず(『サンケイスポーツ』2017年9月11日付記事)
  50. ^ 掛布2軍監督、大山に4番英才教育!期待応えてこそ(『THE PAGE』2017年5月29日付記事)
  51. ^ a b c 阪神・掛布2軍監督が今季限りで電撃退任!(『THE PAGE』2017年9月10日付記事)
  52. ^ 阪神・掛布二軍監督、今季限りでの退任表明 8日に球団から契約満了の通告(『サンケイスポーツ』2017年9月11日付記事)
  53. ^ 掛布二軍監督、最終戦が甲子園に 退任発表受け変更(『デイリースポーツ』2017年9月13日付記事)
  54. ^ 退任の掛布2軍監督が最終戦で胴上げを拒否した理由(『日刊スポーツ』2017年9月29日付記事)
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  88. ^ 週刊新潮』2009年5月7・14日号
  89. ^ 掛布さん側会社に1億5300万円賠償命令 産経新聞 2009年9月11日
  90. ^ 掛布雅之さん:大阪地裁 約1億5000万円の返済命令 毎日新聞 2009年9月11日
  91. ^ ミスタータイガース掛布氏倒産、負債4億 日刊スポーツ 2011年7月27日
  92. ^ 掛布雅之さん:経営の会社が2回目の不渡り 負債4億円 毎日新聞 2011年7月27日
  93. ^ “【データ】村上宗隆プロ野球新5打席連続本塁打 20人「打数」と13人「打席」の両方を更新”. 日刊スポーツ. (2022年8月2日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202208020001009_m.html 2023年1月13日閲覧。 
  94. ^ プロ野球チームをつくろう!ONLINE2特別インタビュー
  95. ^ 掛布氏、独演会にゲスト出演も競売問題語らずMSN産経ニュース2010年5月6日。
  96. ^ 今季限りで退任 掛布二軍監督「充実した4年間。背番号31にも感謝」スポーツニッポン2017年9月10日。
  97. ^ 阪神の新外国人マルテに掛布氏背番号「31」で賛否THE PAGE 2018年12月29日。
  98. ^ プロ野球 レジェン堂 - BSフジ 2023年11月2日
  99. ^ 朝ドラ「エール」にミスタータイガース掛布氏出演 六甲おろし歌う 6月22日放送(『デイリースポーツ2020年6月17日付記事)
  100. ^ 一ツ橋猛虎会『阪神タイガースへぇ~77連発!!』小学館、2003年、37-38頁。ISBN 4-09-102354-1
  101. ^ 【スポンサー活動・企業CM】プロ野球大同工業公式サイト






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