平将門 生涯

平将門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/16 13:19 UTC 版)

生涯

平将門像(茨城県坂東市)

生年について

平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳である。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされることから、延喜3年(903年)とする[1]。室町後期成立の一巻本『応仁記』(宮内庁書陵部蔵)には「将門平親王」が己酉の歳の生まれと記されており、これによれば寛平元年(889年)である。元慶8年(884年)頃とする説もある[注釈 3]

生い立ちと平氏一族の争い

父の平良将下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っているが、根拠となる史料はない。また、母[注釈 4]の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされているが、これは相馬郡に勢力があったということではなく、実際の勢力範囲は同国の豊田猿島両郡であったと考えられている。将門は地方より15 - 16歳のころ平安京へ出て、藤原北家氏長者であった藤原忠平を主君とする(主従関係を結ぶ)。将門は鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの官位は低かった。将門は12年ほど在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが入れられなかった(日本外史神皇正統記は「それを恨みに思って東下して反逆を犯した」とするが、現実的でなく、謀反は「制度に対しての行動」としている『山陽外史』[3]の見方がある)。この後将門は東下する。この東下の際、伯父の平国香平貞盛の父)らが上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃したが、叔父で国香の弟にあたる平良文が将門を援護し、これを打ち破っている[4]

以後「平将門の乱」へつながる騒擾がおこるのだが、それらの原因についていくつかの説があり、いまだ確定できていない。

  • 長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香良兼に独断で分割されていたため争いが始まった、という説。
  • 常陸国茨城県)前大掾源護の娘、あるいは良兼の娘を巡り争いが始まったとする説(『将門記』などによる)。
  • 源護と平真樹の領地争いへの介入によって争いが始まったとする説[注釈 5]
  • 「源護・源護の縁者と将門の争い」ではないかとも言われている(将門が当初は伯父らと争っているため、「坂東平氏一族の争い」と見られがちだが、国香・良兼・良正は源護の娘を娶っており、将門の父の平良将とは違うことから)。
  • 将門の父の平良将が鎮守府将軍時代に築いた陸奥国の基盤や、将門が拠点とした下総国猿島郡に存在した陸奥国に至るまでの常総地域の道路・内海などの交通網を巡った説[5]

承平5年(935年)2月に将門は源護の子の源扶らに常陸国真壁郡野本(筑西市)にて襲撃されるが、これらを撃退し源扶らは討ち死にした。そのまま将門は大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちし、その際に伯父の国香を焼死させた。同年10月、源護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、この軍も将門に撃破され、良正は良兼に救いを求め、静観していた良兼も国香亡き後の一族の長として放置できず国香の子の平貞盛を誘って軍勢を集め、承平6年(936年)6月26日上総国を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受けて敗走、下野国国衙に保護を求めた。将門は下野国国府を包囲するが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国した。

同年、源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出て、将門らは平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって、全ての罪を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し、8月6日には良兼は将門の父の良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで将門は敗走、良兼は将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る。だが弟たち(『将門記』には「舎弟と語らいて」とあり公雅公連とされている)の手助けで9月10日に再び出奔し、将門の元に戻ってしまった。妻子が戻ったことに力を得た将門は、朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出る。そこで朝廷は同年11月5日に一つの太政官符を出した。従来、この官符は平良兼・平貞盛・源護らに対して出された将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には馬寮に属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が受けたと解釈する説が有力となっている。いずれにしてもこれを機に将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。

天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守興世王(出自不明)と介源経基清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた[注釈 6]。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月2日付けで、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。

この時期には将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられている。

平将門の乱

月岡芳年「芳年武者旡類 相模次郎平将門」
豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」
歌川国芳「相馬の古内裏」

この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済王貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた藤原玄明庇護ひごを求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(940年1月3日)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した[注釈 7]。結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう[独自研究?]将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日下野に出兵、事前にこれを察知した藤原弘雅・大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出したが、将門は彼らを国外に放逐した。続いて同月15日には上野に出兵、迎撃に出た藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収してこれまた国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めた。八幡神菅原道真の霊の神託が降ったことにより、「新皇」を自称するようになり、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。即位については舎弟平将平や小姓伊和員経らに反対されたが、将門はこれを退けた。菅原道真の霊がここで登場するのは、道真の子息たちが東国の国司に任命されており(菅原景行が常陸介、菅原旧風が武蔵介、菅原兼茂が常陸介)、特に兼茂は承平年間の後半ごろに常陸介であっただけでなく、『扶桑略記』には彼が父・道真の霊と対話したという逸話が記されているため、兼茂が常陸でこのことを語ったことが、将門の「新皇」即位にも影響したのではないかという説がある[5]

  • 新皇将門による諸国の除目と素性
    • 下野守:平将頼(将門弟)
    • 上野守:多治経明(陣頭・常羽御厩別当)
    • 常陸介:藤原玄茂(常陸掾)
    • 上総介:興世王(武蔵権守)
    • 安房守:文屋好立(上兵)
    • 相模守:平将文(将門弟)
    • 伊豆守:平将武(将門弟)
    • 下総守:平将為(将門弟)

なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である[注釈 8]。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない[注釈 9]

将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され、1月19日には参議藤原忠文征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷に帰ることなく討伐軍長官として出立したという。

同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。10日間に及び捜索するも貞盛らの行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している[要出典]。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。『将門記』では「然ルニ新皇ハ、井ノ底ノ浅キ励ミヲ案ジテ、堺ノ外ノ広キ謀ヲ存ゼズ。」と、この将門の一連の行動を“浅はか”であると評しており、事実その足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的となったと言える。

間もなく、貞盛が下野国押領使藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入る。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて2月1日を期して出撃した。将門の副将藤原玄茂の武将多治経明と坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始するも、元来老練な軍略に長じた秀郷軍に玄茂軍は瞬く間に敗走。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し、下総国川口にて将門軍と合戦となる。将門自ら陣頭に立って奮戦したために貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。

この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負を仕掛けるために幸島郡の広江に隠れる。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲も加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門らにより世が治まらないことを嘆いたという。当の将門は身に甲冑をつけたまま貞盛らの探索をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢が悪くて思うように集まらないために攻撃に転ずることもままならず、僅か手勢400を率いて幸島郡の北山を背に陣をしいて味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知ることとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることとなった。

2月14日未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦が始まった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した[注釈 10]

島広山石井営所跡 私鉄守谷・野田市駅からバス国王神社向い

朝廷のさらなる追討により将門の弟や子ら近親者も皆殺しにされた。将門の首は平安京にて晒し首となり、獄門が日本史上で確認されている最も古く記録された例が将門である。

この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。

補足

王城下総国の亭南(柏市大津説がある)と定め、檥橋を京の山崎相馬郡の大井の津を大津になぞらえて、左右大臣・納言参議など文武百官を任命し、内印・外印を鋳造し、坂東に京に模した国家を樹立しようとしたとされている。


注釈

  1. ^ 笏を逆さに持たすなど作法に反し意図的である。没後しばらくして将門の娘が建立したとされる茨城県坂東市の国王神社の木造平将門像(茨城県指定有形文化財、国王神社神体)とは、肩や筋骨質の体つき、目の大きさ、顎の形等、印象が違う。
  2. ^ a b 桔梗と呼ばれる女性の伝承とその終焉の地(桔梗塚)も各地にあり彼女の、出自、将門ならび藤原秀郷との関係、将門をどのように裏切ったか、裏切りをしていないか、などが異なっていて定説は無い。
  3. ^ 一部の書籍(特に児童・生徒向けに書かれた物では疑問符付き)で903年とするが、これは将門が火雷天神(菅原道真)の生まれ変わりとするとの伝承からきていると考える者もいる。梶原正昭は、将門が反乱を起こした際に藤原忠平に宛てた書状の中に「(私こと将門は)少年時代にあなた様の家臣となって以来数十年云々」という意味の記述があることから、数十年を40年と仮定すると将門が忠平の家臣となったのは899年頃、その頃の将門の年齢は15 - 6歳であろうか、との可能性を示唆している[2]
  4. ^ 『尊卑分脈脱漏』『坂東諸流綱要』等によると、「犬養春枝女」または「県犬養春枝女」となっている。
  5. ^ 『歴代皇紀』の「将門合戦状伝」には、始め伯父の平良兼との間で争い、次に平真樹なる者に誘われて平国香や源護らと事をかまえるに至ったとしている。
  6. ^ 『将門記』では「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」と述べられている。
  7. ^ 『摂政忠平宛将門書状』には、「維幾の子為憲が公の威光を傘に猛威をふるったため、玄明の愁訴によってそれを正そうとして常陸に赴いたところ、為憲と貞盛が示し合わせて戦いを仕掛けてきた。」とある。
  8. ^ ただし『将門記』では興世王の献策に対して「將門ガ念フ所モ、啻斯レ而巳。(中略)苟モ將門、刹帝ノ苗裔、三世ノ末葉也。同ジクハ八國ヨリ始メテ、兼ネテ王城ヲ虜領セムト欲フ。」と答えたとしているが、この答えは後に出てくる『摂政忠平宛将門書状』の内容とは矛盾する。
  9. ^ 海音寺潮五郎は『悪人列伝 古代篇』にて、これを将門の無知の証拠として指摘している[6]
  10. ^ 扶桑略記』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされ、『和漢合図抜萃』では、秀郷の子の千常が将門を射落とし首級をあげたとされている。
  11. ^ こめかみの「こめ(米)と俵藤太の「俵」を掛け合わせたもの。

出典

  1. ^ 赤城宗徳 1970, p. 196
  2. ^ 梶原正昭 1976, pp. &#91, 要ページ番号&#93,
  3. ^ 中川克一『山陽外史』至誠堂、1911年、[要ページ番号]頁。 
  4. ^ 稲毛の歴史”. 千葉市. 2013年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
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  6. ^ 海音寺潮五郎『悪人列伝』 古代篇、文藝春秋文春文庫〉、2006年、[要ページ番号]頁。ISBN 4167135485 
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  8. ^ 関幸彦『武士の原像 都大路の暗殺者たち』(吉川弘文館、2020年)
  9. ^ 川尻秋生 2009a, p. 22-23.
  10. ^ 早川由紀夫、小山真人:日本海をはさんで10世紀に相次いで起こった二つの大噴火の年月日 : 十和田湖と白頭山 Bulletin of the Volcanological Society of Japan 43(5) pp.403-407 1998-10-30, ISSN 0453-4360
  11. ^ 宮瀧交二 2009, p. 126-133.
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  13. ^ 村上春樹 2009, p. 209-210.
  14. ^ 乃至政彦 2019, p. 21-27.
  15. ^ 川尻秋生 2009a, p. 20.
  16. ^ 川尻秋生 2009b, p. 237.
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