平将門
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系譜
略系図
先祖
桓武天皇の曾孫の高望王が、寛平元年(889年)平姓を賜わり平高望となる[19]。昌泰元年(898年)に上総介に任じらる。当時の国司は任国へ赴任しない遥任国司であることが常であったが、高望は一族を連れて東下した。そのころ東国では騒乱が多発しており、高望一族には東国鎮撫が期待されていたと考えられる[20]。高望の子らは土豪と血縁関係を結び、後の坂東平氏となる。
父母
- 父:平良持 - 平高望の三男。従四位下・鎮守府将軍[21]。尊卑文脈などの史料は良将とする。墓は常総市蔵持に伝承が残る[22]。
- 母:一部の系譜には縣犬養春枝の娘と記載される[21][23]。縣犬養氏は土豪だと言われ、万葉集にみえる縣犬養浄人(奈良時代に下総少目を務める)の末裔とする説[24][25]もあるが、これらには確証はない[26]。茨城県取手市には縣犬養春枝の屋敷跡との伝承が残る[22]。
妻
将門の婚姻関係については確たる史料がなく、将門記の堀越渡しの合戦にて「将門の妻は夫を去って留められ、怨み少なからず、その身生きながら魂は死するが如し」などと記されるのみである。この妻が誰であるのかについては諸説ある。
- 平良兼の娘 - 『将門略記』に良兼と将門は「舅甥の仲」と書かれている事から、娘が将門に嫁いでいたとする説[27][28]。これを補足する説として、堀越渡しの合戦で妻が奪われた(原文:妻子同共討取)のは妻が将門の元にいる事を意味し、当時の婚姻制度(通い婚)にそぐわず、将門は妻を良兼の反対を押し切り連れ去っていたとする説[29]や、その後に「然る間、妾(妻の意)の舎弟ら、謀を成し九月十日をもって豊田郡に環り向かわしむ」とあることから、舎弟とは妻の兄弟でなおかつ妻を開放できる立場にあった者、つまり良兼の息子であったとする説[30]がある。
- 君の御前 - 将門の妻は平真樹の娘であるという伝承が茨城県桜川市に伝わる。この伝承によると、将門記の堀越渡しの合戦にて開放された妾(良兼の娘)と討取られた妻は別人で、討取られた妻こそが君の御前であるとする。亡くなった妻を弔ったのが茨城県桜川市大国玉にある后神社(新皇の妻という意味で后)であるという[31]。また異なる説として、これを逆とする(討取られた君の御前が愛妾で、妻は良兼の娘)とする説[32]もある。
将門の側室(愛妾)について伝承が数多く伝わるが、伝説あるいは創作の域を出ない。
- 桔梗の前 - 桔梗姫ともいう。伝承地により内容が異なるが、「将門の寵姫のなかでもとりわけ寵愛が深かったが、俵藤太秀郷に内通して将門の秘密を伝えた故に将門は討たれ、自身も悲劇的な最期を遂げる」というのが大筋である[33]。また、関連する伝説として桔梗忌避伝承も多い[34]。
- 小宰相 - 香取郡佐原領内の長者牧野庄司の娘で、将門がこの地に逗留した際に目に留まり竹袋の城に囲われたと伝わる(千葉県香取市)。小宰相の名は御伽草子『俵藤太物語』にも見えるが、こちらでは桔梗の前との共通点が多い[35]。
- 御代の前 - 京人の管野某の妻で、管野が将門調伏を志すと共に東下し、将門の妾として大野の城に入り、内情を夫に知らしめたと伝わる(千葉県市川市・御代院伝)[35]。
- 車の前 - 乱の後に千葉県柏市大井に遁れて、将門の菩提を弔ったと伝わる(千葉県柏市大井)。また『相馬系図』によると中村庄司の娘が乱が起こったとき懐妊しており、将門は伯父中村才治に命じて在所の大井に疎開させたとあり、『千葉県東葛飾郡誌』はこの娘が車の前であるとしている[36]。
- 和歌の前 - 茨城県結城市に将門の愛妾で和歌の前の墓が伝わる。和歌が巧みで、将門が下野国府を攻めた際に玉村の某との婚礼を襲い略奪され、この地の綾戸城に囲われたと伝わる(茨城県結城市)[37]。
- 苅萱姫(さくらひめ) - 茨城県美浦村には国香の家臣であった大須賀内記の娘で、将門の死後に身籠っていた信太小太郎文国を生んだと伝わる。文国が育ったとされる信太郡(茨城県稲敷郡美浦村大字信太)は大須賀氏の領地である[38]。
子
『扶桑略記』の天徳四年(960年)10月2日条に「将門の息子が入京したとの噂がたち、検非違使らが探索をした」との記載がある。そのような息子が実在していたのかは定かではないが、将門の死後20年経ってもなお、朝廷には将門末裔への警戒心があったことが推測できる[39]。
千葉氏は将門の娘の如春尼、相馬氏は息子の将国の子孫であると家系図などで伝わる。また『源平闘諍録』には将門の叔父の平良文は将門の養子になったとも伝わる。ただしこれらの伝承は、千葉一族が脆弱な在地支配や一族の結束を強化するために将門を家系に取り込んだものとし、12世紀~13世紀ごろに成立した創作とする研究がある[40]。
- 平良門 - 将門の長男とされる人物。良門は将門の復讐を果たすべく挙兵するという話が歌舞伎などで知られているが、そのような事件は史料には残っておらず近世の創作とされる。 また良門の子には蔵念という僧がいたという伝承がある(『今昔物語集』)[41]。
- 平将国 - 将門の次男と伝わる人物で、乱ののちに信太郡に逃れて信太氏を名乗ったとされる。相馬家には将国の子孫の信田師国が相馬師常を養子に迎え、相馬家となったと伝わる(『相馬当家系図』など)[42]。なお、将国の子とされる信太小太郎文国は幸若舞の信田のモデルとされる[43]。
- 五月姫 - 将門の娘とされる伝説上の人物で、妖術使いとして浄瑠璃などで描かれる。茨城県つくば市には滝夜叉姫の墓と伝わる石板がある。
- 如春尼 - 将門の次女とされる人物。千葉氏などの系図には平忠頼に嫁ぎ、平忠常や平将恒を生んだとされるが、詳細は不明[44]。
- 如蔵尼 - 将門の三女とされる人物。将門の死後、奥州の恵日寺に逃れ寺の傍らに庵を結んだとされる。国王神社は如蔵尼が将門の三十三回忌に創建したと伝わる[45]。
注釈
- ^ 笏を逆さに持たすなど作法に反し意図的である。没後しばらくして将門の娘が建立したとされる茨城県坂東市の国王神社の木造平将門像(茨城県指定有形文化財、国王神社神体)とは、肩や筋骨質の体つき、目の大きさ、顎の形等、印象が違う。
- ^ a b 桔梗と呼ばれる女性の伝承とその終焉の地(桔梗塚)も各地にあり彼女の、出自、将門ならび藤原秀郷との関係、将門をどのように裏切ったか、裏切りをしていないか、などが異なっていて定説は無い。
- ^ 一部の書籍(特に児童・生徒向けに書かれた物では疑問符付き)で903年とするが、これは将門が火雷天神(菅原道真)の生まれ変わりとするとの伝承からきていると考える者もいる。梶原正昭は、将門が反乱を起こした際に藤原忠平に宛てた書状の中に「(私こと将門は)少年時代にあなた様の家臣となって以来数十年云々」という意味の記述があることから、数十年を40年と仮定すると将門が忠平の家臣となったのは899年頃、その頃の将門の年齢は15 - 6歳であろうか、との可能性を示唆している[2]。
- ^ 『尊卑分脈脱漏』『坂東諸流綱要』等によると、「犬養春枝女」または「県犬養春枝女」となっている。
- ^ 『歴代皇紀』の「将門合戦状伝」には、始め伯父の平良兼との間で争い、次に平真樹なる者に誘われて平国香や源護らと事をかまえるに至ったとしている。
- ^ 『将門記』では「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」と述べられている。
- ^ 『摂政忠平宛将門書状』には、「維幾の子為憲が公の威光を傘に猛威をふるったため、玄明の愁訴によってそれを正そうとして常陸に赴いたところ、為憲と貞盛が示し合わせて戦いを仕掛けてきた。」とある。
- ^ ただし『将門記』では興世王の献策に対して「將門ガ念フ所モ、啻斯レ而巳。(中略)苟モ將門、刹帝ノ苗裔、三世ノ末葉也。同ジクハ八國ヨリ始メテ、兼ネテ王城ヲ虜領セムト欲フ。」と答えたとしているが、この答えは後に出てくる『摂政忠平宛将門書状』の内容とは矛盾する。
- ^ 海音寺潮五郎は『悪人列伝 古代篇』にて、これを将門の無知の証拠として指摘している[6]。
- ^ 『扶桑略記』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされ、『和漢合図抜萃』では、秀郷の子の千常が将門を射落とし首級をあげたとされている。
- ^ こめかみの「こめ(米)と俵藤太の「俵」を掛け合わせたもの。
出典
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