八代城 松江城

八代城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 07:55 UTC 版)

松江城

歴史

発掘調査された八代城の総構えの石垣[8]
月見櫓跡石垣の江戸時代における修復部分
肥後八代図 (江戸中期-末期, 右側が南) かなり不正確な地図で、朱色で訂正されているように描かれた城の輪郭は実際の形状とは全く異なる。

麦島城の倒壊後、清正の次男[9]で第2代藩主加藤忠広は、元和6年(1620年)に江戸幕府の許可を得ると、松江村の南、球磨川(前川)の徳淵(徳渕)の北岸に、加藤正方に命じて新たな城を築かせることにした。地名からこの城は当時は松江城とも徳淵城ともいったが、現在は後者の地名がなくなっていることから、松江城の呼び方の方がより知られている。麦島城は加藤氏への備えの意図もあって三角州に建てられたが、すでにその必要がなく、南、東側からの攻撃を意図して、球磨川の北岸の平野部に建てられることになった。同時に球磨川の洪水から城下町を守るため、旧来あった萩原堤に大工事を施して大幅に拡張している。

城は元和8年(1622年)に竣工した。麦島城時代に認められた一国二城体制は継続されたことは、一国一城令1615年)の中では全国的にも異例のことであった。熊本藩内に2つの城(熊本城、八代城)の存在が許された理由は、南の大藩・薩摩藩および隣藩・人吉藩への備えとしてというのが通説であるが、島原の乱の舞台となった天草キリシタン弾圧の備え[10]または小西時代に増えた領内のキリシタンへの備え[11]としてだとか、またこの時期にしばしば現れた異国船への備えとしてだとか、あるいは秀吉恩顧である加藤藩の財政を逼迫させるためだとか、その他に諸説もある。いずれにしろ幕府が特例を認めなければ現在の八代城は存在しなかった。

寛永9年(1632年)6月に忠広が理由不明のまま改易されて出羽国丸岡に流されると、正方も城を退去して京都本国寺に隠棲した。この時、城は戸数2,100余人口約1万人で、13年経てもまだ松江城の北西の外郭(北の丸と三の丸の城壁の一部)は未完成のままであった。また本丸以外の区画には多くの手抜きがあり、城壁に蔀櫓(しとみやぐら)や茀櫓(かざしやぐら)はほとんどみれず、城壁の代わりに土壁で代用した箇所も多かった。防備には明らかな欠陥があり、築城が不徹底であったのは、太平の世を騒がせぬために意図的に放置したものであろう。防御に適した理想的な立地でありながらも松江城は一度も戦闘に用いられていない。

同年10月、豊前小倉藩37万石の藩主だった細川忠利が肥後熊本藩54万石(鶴崎2万石を含む)へ移封され、12月に熊本城に入城した。忠利の父細川忠興(三斎)は幕府の内命を受けて八代城に入り、北の丸を隠居所として、四男の立孝を本丸に住まわせた。いずれ自分の隠居料9万5千石を継がせて立藩させることを望んでいたようだが、寛永18年(1641年)に忠利が亡くなり、正保2年(1645年)閏5月に相次いで立孝も若くして没し、二人の子に先立たれた忠興も同年12月に死去した。

正保3年(1646年)、2代藩主光尚は、島原の乱においても活躍し、将軍徳川家光直臣の身分[12]も持つ筆頭家老松井興長を八代3万石に移封して八代城城主とし、立孝の子・宮松(細川行孝)には宇土郡益城郡内に3万石を与えて宇土支藩とした。以後明治3年(1870年)の廃城まで松江城(八代城)は代々松井氏が居城とする。慶安2年(1650年)12月、光尚は亡くなるが、興長は明暦元年(1655年)に予てより進めていた松江村の西の干拓で土地を広げ、新地に松隈村(後の坂本村)からの移住民からなる松崎村(現松崎町)を造った。干拓事業は以後も歴代城主によって続けられ、現在の八代市を形作る上で大きな影響を与えることになる。

寛文12年(1672年)2月、落雷により大小の天守・楼・櫓・家屋を焼失した。翌年7月、3代藩主綱利は幕府の許しをえて城を修復したが、この時、第一天守(大天守)は再建されなかったので、北東隅の三層櫓が一番高い建物となった。宝暦5年(1755年)7月に大洪水があり、球磨川が氾濫して萩原堤防が決壊し、城下で大勢が溺死した。加藤正方が築いた堤防の修復の方法が分からずに藩が困っていたところ、藩士稲津弥右衛門(頼勝)が志願し、7日間の工事で2km余の堤防を見事に復旧してみせた。同年に熊本で藩主細川重賢によって時習館が開かれると、宝暦6年(1756年)、城主の子栄之によって八代城の二の丸に伝習堂が開かれた。寛政9年(1797年)10月、火災により本丸大書院・二階月見櫓等を焼失。翌年幕府の許可を得て大書院は再建されるが、小天守・櫓は再建されなかった[13]。この時点で八代城は天守や櫓もほとんどない城となったので、図面はあるものの、天守の写真などは残っていない。

幕末期、城主章之は欧米の火砲の技術に驚き、軍事技術の研究に勤しみ、西洋式の大砲・小銃を導入した。八代城に大砲164門・小銃1,900を備え、嘉永4年(1851年)には北の丸に兵器廠を設けて武器・弾薬を貯蔵した。

明治2年(1869年)の版籍奉還で最後の城主盈之は封土を政府に返還した。政府は代わり盈之を熊本藩大参事に任じて俸金を与えた。翌年、盈之はこの任を辞して八代城を退去し、熊本に移った。廃城令後、建物は大書院を除き、全て取り壊された。石垣も順次取り崩されたり、埋められたりした。

明治10年(1877年)の西南の役の際には八代の士族の中には西郷軍に参加した者も多かったが、松井氏の旧臣370名が集まり大番頭山本勝盛を隊長として結成した八代正義隊は郷土の治安維持を目的としてこれに組せず、3月19日に官軍軍艦が日奈久港に入ると官軍を八代に迎えてこれと合流した。薩摩から増援(必死隊)を連れて戻った辺見十郎太別府晋介宮崎八郎は、田原坂から後退中の本隊と合流するために球磨川上流から八代に侵入し、4月6日より交戦。しかし撃退されて高田に退いた。13日再び北岸に渡って接近し、旧城趾である古麓山を占拠してそこから宮地へと進んだが、17日に官軍の反撃があって宮崎八郎が戦死するなど敗北を喫した。結局、城下に侵入することすらできず、八代・宇土を制圧する官軍の前に西郷軍は平野部を移動できなかったので、矢部五木村の山中を難行軍するしかなかった。戦後、八代正義隊の活躍を賞して旧藩主の子敏之は特別に正六位に叙されている。

構造

肥後国八代城 (江戸中期-末期, 上側が北) 天守閣が描かれている中央の区画が本丸で、北西端に五層の大天守、脇に小天守、南西端が月見二層櫓、南東端に宝形一層櫓、その上にあるのが磨櫓。北東にあるのは三層櫓である。搦手口にあるものが九間櫓と唐人櫓であろう。本丸の外、南東の細長い区画が二の丸(現在は駐車場)、南西の大きな四角が三の丸(現在は市街地)である。三の丸の北の細長い区画が北の丸(現在松井神社がある場所)、そのさらに北の独立した区画が出丸である。町ごと取り囲むように総構えがあり、下に描かれているのは前川であるが、これも外堀の役割を果たした。

松江城(八代城)は輪郭式の平城で、本丸を中心に、南東に二の丸、南西に三の丸、北西に北の丸、北に出丸が、非対称(渦巻き状)に配置され、それぞれ水堀で区切られる。城の正面は東側(ただし、大手門は南側にある)で、南の前川と出丸の堀とを結ぶ外堀が東側にだけあり、どんど口(北)、松江口(東)、枡形口(南東)の三つの入口があって、堀と郭の間には整然と区画整備された城下の町並みがあった。外郭と併せて、五郭と堀で城を二重に囲むという構造である。現在、八代市の西側は平地が広がっているが、築城時は干拓前で、不知火海の海岸線ももっと近くにあり、一面干潟であった。日置川(現・水無川)が北の境で外郭の一助になっているが、北西・西方面には特に防御構築物はない。南側は萩原堤と前川が備えとなっているが、北側と東側の外郭には外堀があるだけで、ほとんどの箇所は土塁しかなかった。

八代に過ぎたるものが二つある 天守の屋根に乞食の松 — 細川三斎[14]

松江の天守は加藤正方の渾身の作であり、築城時は本丸の北西隅に4層5階の大天守[15](高さ11メートル[16])がそびえ、2層3階の小天守(高さ9.7メートル[17])と渡櫓で連結していた。忠興が詠んだように大天守は小城に似合わぬ荘厳さであったが、落雷によって焼失し、以後一度も復元されていない。大天守が早くに無くなったので、江戸時代の『八代城郭絵図』ではすでに四角の区画だけが残る姿で描かれている。現在も石垣だけであるが、北西の長方形の大天守台とそれに隣接する小天守台は、立派で美しい勾配の石垣から比較的判別しやすい。本丸の南西隅に二層の月見櫓があり、南東隅の一角は少し張り出した大枡形になっていて、舞台脇櫓・三十間櫓(外様櫓)・宝形櫓が並んでいた。宝形櫓の二階は仏殿であったという。現在、相撲場がある場所には能舞台があった。御門を通ったら正面に見える北東隅にあった三層櫓は大天守なき後は最も高い建物であった。本丸の石垣(の一部)には石灰岩が用いられ、その色から別名「白鷺城(しらさぎじょう)」、「白石城」[2]とも呼ばれた。堀には泳いで渡れないように棘がある鬼蓮が植えられていて、現在もそれは見られる。本丸の中央には本丸御殿、大書院があり、これは学校としても使用され、後に移築されたが、昭和61年(1986年)2月、移築保存中に焼失してしまった。

本丸東口を本門(表枡形門)とし、二の丸と結ぶ欄干橋[18]が架けられていて、渡るとすぐに高麗門があり、左手にそびえるのが磨櫓で、そこから少し進み、直角に曲がると北面して頬当御門(頬当門)があり、侵入者が直進できない構造となっている。本丸北口は「埋門」と言い、九間櫓と唐人櫓に挟まれた低い通路を通って裏桝形門(廊下橋門)に至る。これは北の丸とを結ぶ搦手口で、廊下橋が架けられていた[19]。現在、本丸南側に二の丸と三の丸を結ぶ「二の門」の近くに、八代宮(征西将軍懐良親王良成親王を祀る)に入る車道(神道)があるが、あの橋も南口ももともとはなかった。南側からの入口は、明治時代に本丸内に創建された八代宮の参道として月見櫓と舞台脇櫓の間の石垣を取り壊して造られたものである。

二の丸には、会所、首席家老屋敷、馬屋[20]、伝習堂[21]があった。二の丸の北口が出丸に通じ、出丸の北東端に東大手門(畳櫓門)があった。二の丸と三の丸は「二の門」で区切られる。三の丸は大手郭とも言い、米蔵や家老の角田家・井上家の屋敷があった。三の丸の南口が大手門で西口が三本松門で北口は黒門と云い、北の丸に通じた。北の丸は細長い区画で北小路郭とも言い、最初は細川忠興の隠居屋敷で後には城主邸となり、周囲にその一族の屋敷、庭園などがあった。北の丸にも南門があって二重の構造となっているが、北の丸の城壁は未完成で、一部は土塁となっていた。出丸は侍屋敷小路で、中級以上の藩士の屋敷が並んでいた。出丸の西口は塩屋口門といった。出丸の周囲も石垣は一部であり、外郭を覆うべき城壁は存在せず、北側と東側も堀だけがあった。昭和10年(1935年)頃に区画整理のため、二の丸・三の丸・出丸の石垣を取り壊し、これを取り囲む外堀も埋め立てられた。


  1. ^ 磯田正敬 1884
  2. ^ a b 石垣に白い石を用いたことから[1]
  3. ^ 当時は城の西は干拓されておらず、不知火海(八代海の異称)が外郭のすぐ近くまで来ていたため、不知火城とも言った。
  4. ^ a b 平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。
  5. ^ 地名。松江町。
  6. ^ 国の史跡指定に伴い、熊本県の史跡としての「八代城跡」と「平山瓦窯跡」の指定は解除された。(参照:八代市の指定文化財一覧
  7. ^ 熊本県八代市奈良木町にあった。現在の奈良木神社の近く。古麓城との位置関係は球磨川の対岸にあたる。
  8. ^ 萩原堤は球磨川の湾曲部から八代城を一回りして北の丸まで続く長い堤防。名和・相良氏が築いたものを加藤氏が延長した。
  9. ^ 長男加藤忠正疱瘡を患って八代で死去した。
  10. ^ 麦島城時代にすでに一国二城体制が特別に許されており、島原の乱を契機とするキリシタン弾圧の備えとは、後付けされたものであろう。
  11. ^ 他方で、加藤時代の慶長年間にキリシタン弾圧と改宗の強制が大規模に進められたのは事実で、熊本加藤藩の負の歴史である。隠れキリシタンは隣藩の相良藩でも多く見られ、隠れキリシタンの墓が各所に残っている。
  12. ^ 松井康之織田信長によって細川藤孝の与力とされた時に山城国相楽郡160石の所領を与えられており、松井氏はそれを保持して秀吉、家康と代々安堵されていて、旗本としても徳川家に代々仕える立場だった。
  13. ^ 建物以外にも、石垣の修復が数回行われており、熊本県立図書館永青文庫(熊本大学附属図書館寄託資料)に絵図が所蔵されている。現在でも、月見櫓跡石垣等で、修復の痕跡を見ることができる。
  14. ^ 『宮地郷土史読本』p.195
  15. ^ 外から見ると四層であるが、内面が五層構造のため、地階つきで5層6階、大天守を五層とも表現する。
  16. ^ 高さ36尺、東西66尺、南北75尺。
  17. ^ 高さ32尺、東西29尺、南北43尺。
  18. ^ 八代市役所の真横から入る小さい入口が八代城の本来の正門。欄干橋はもとは木造の太鼓橋であったが、現在はコンクリート製の平坦な橋となっている。
  19. ^ 現在は廊下橋はなく、八代宮の北参道神橋がある。
  20. ^ 敷地は旧八代総合病院(現熊本総合病院)のあった場所。
  21. ^ 現在の市庁舎は旧八代高校敷地でその前がこの郷校があった。
  22. ^ 興長は藩主の姓である長岡姓を賜り、以後代々長岡も名乗った。
  23. ^ 明治になって松井姓に復している。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「八代城」の関連用語

八代城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



八代城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの八代城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS