八代城
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現存建物
現在は水堀に囲まれた本丸の区画だけは比較的よく残っているが、その他の区画はほとんどは市街地になって面影があまり残っていない。本丸も石垣はあるものの地上の建物は明治期に完全に取り壊された。当時、文化財を保存する意識が低く、内城の城壁までセメント工場に売り払われたほど廃城は徹底しており、遺構は地表面に残っていない。ただし、加藤忠正(忠広の兄)菩提所の泉福山本成寺には、本丸の高麗門が移築され、松井氏の菩提寺春光寺には三の丸の永御蔵御門が移築されて現存する。本丸大書院は一度焼けているが、再建後、八代宮を建設するときに移築され、前述のように再度焼失した。
本丸と堀外の北の丸の一部は公園として整備されている。城主松井直之が母崇芳院尼のために造らせた御茶屋である松浜軒は国の名勝として現存する。松井神社の庭園は、加藤正方が造らせたもので、忠興が自ら植えた臥竜梅もある。道の反対側の廊下橋門内には西山宗因の句碑があり、宗因が正方の家臣であったという縁で、昭和40年に建設されたものである。
また、城総構えの石垣の一部は現在も堤防下の地中には保存されており、平成に入って一部本発掘調査が行われ、その姿を現した。この時発見された石垣隅角部の一部が八代市立博物館にモニュメントとして復元されている。北の丸、二ノ丸においても発掘調査が行われ、北の丸では数寄屋と考えられる建物跡、二ノ丸では内堀に面した石垣が発見された。
- ^ 磯田正敬 1884
- ^ a b 石垣に白い石を用いたことから[1]。
- ^ 当時は城の西は干拓されておらず、不知火海(八代海の異称)が外郭のすぐ近くまで来ていたため、不知火城とも言った。
- ^ a b 平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。
- ^ 地名。松江町。
- ^ 国の史跡指定に伴い、熊本県の史跡としての「八代城跡」と「平山瓦窯跡」の指定は解除された。(参照:八代市の指定文化財一覧)
- ^ 熊本県八代市奈良木町にあった。現在の奈良木神社の近く。古麓城との位置関係は球磨川の対岸にあたる。
- ^ 萩原堤は球磨川の湾曲部から八代城を一回りして北の丸まで続く長い堤防。名和・相良氏が築いたものを加藤氏が延長した。
- ^ 長男加藤忠正は疱瘡を患って八代で死去した。
- ^ 麦島城時代にすでに一国二城体制が特別に許されており、島原の乱を契機とするキリシタン弾圧の備えとは、後付けされたものであろう。
- ^ 他方で、加藤時代の慶長年間にキリシタン弾圧と改宗の強制が大規模に進められたのは事実で、熊本加藤藩の負の歴史である。隠れキリシタンは隣藩の相良藩でも多く見られ、隠れキリシタンの墓が各所に残っている。
- ^ 松井康之は織田信長によって細川藤孝の与力とされた時に山城国相楽郡160石の所領を与えられており、松井氏はそれを保持して秀吉、家康と代々安堵されていて、旗本としても徳川家に代々仕える立場だった。
- ^ 建物以外にも、石垣の修復が数回行われており、熊本県立図書館や永青文庫(熊本大学附属図書館寄託資料)に絵図が所蔵されている。現在でも、月見櫓跡石垣等で、修復の痕跡を見ることができる。
- ^ 『宮地郷土史読本』p.195
- ^ 外から見ると四層であるが、内面が五層構造のため、地階つきで5層6階、大天守を五層とも表現する。
- ^ 高さ36尺、東西66尺、南北75尺。
- ^ 高さ32尺、東西29尺、南北43尺。
- ^ 八代市役所の真横から入る小さい入口が八代城の本来の正門。欄干橋はもとは木造の太鼓橋であったが、現在はコンクリート製の平坦な橋となっている。
- ^ 現在は廊下橋はなく、八代宮の北参道神橋がある。
- ^ 敷地は旧八代総合病院(現熊本総合病院)のあった場所。
- ^ 現在の市庁舎は旧八代高校敷地でその前がこの郷校があった。
- ^ 興長は藩主の姓である長岡姓を賜り、以後代々長岡も名乗った。
- ^ 明治になって松井姓に復している。
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