肥後国八代城主へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 02:21 UTC 版)
寛永9年(1632年)肥後国52万石の加藤忠広が改易されると、替わって細川忠利が54万石で熊本に入部した。肥後国で興長には玉名郡と合志郡に3万石が与えられた。藩主忠利の父忠興(三斎)は肥後国南部の八代城をその隠居城としたが、この城は薩摩の島津氏に対する押さえとして特に一国一城令の例外とされていた。正保2年(1646年)にその三斎が死去すると、八代城は興長が預かることになり、以後代々松井氏が八代城代を務めた。興長は忠興の次女古保(こお)を正室とし、三斎の六男を養嗣子に迎えて(松井寄之)、細川氏の別姓である「長岡」を賜り、長岡佐渡守と称した。こうして松井氏は熊本藩の実質的支藩である八代3万石の領主として幕末に至る。 松井氏は宮本武蔵と親交があったことで知られる。松井家には、武蔵が細川家に仕官する直前に興長に宛てた書状(長岡佐渡守宛書状)が残っており、また武蔵が熊本藩の客将となった後も寄之が武蔵を後援し、自身もその兵法の弟子となっている。寄之はやがて病床に臥すようになった武蔵の身の世話をしていたことも、寄之と武蔵の養子宮本伊織との間に交わされた多くの書状から明らかになっている。こうして武蔵の手による水墨画や工芸品などの文物の多くが松井家に伝えられた。 秀吉から安堵されていた山城国の知行地は幕府からも安堵を得ており、このため松井氏は細川家家臣として陪臣であるとともに幕府直参としての横顔も併せ持つ特殊な家となった。松井家当主の代替わりおよび将軍の代替わりに際しては、その都度江戸に出府して将軍に御目見得している。 細川家では世襲家老家の松井氏・米田氏・有吉氏を上卿三家と呼んだが、中でも松井氏は細川一門として代々筆頭家老を勤めた。明治維新後は、万石以上の大身家老家として明治25年(1892年)に松井敏之が華族に列し男爵を授爵している。
※この「肥後国八代城主へ」の解説は、「松井氏」の解説の一部です。
「肥後国八代城主へ」を含む「松井氏」の記事については、「松井氏」の概要を参照ください。
- 肥後国八代城主へのページへのリンク