八代城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 07:55 UTC 版)
交通アクセス
参考文献
- 児玉幸多, 坪井清足, 平井聖, 磯村幸男ほか 編『日本城郭大系, 福岡・熊本・鹿児島』 第18、新人物往来社、1979年、328-336頁。
- 磯田正敬 編『国立国会図書館デジタルコレクション 八代城誌』八代活版舎、1884年 。
- 熊本県教育会八代郡支会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 八代郡誌』熊本県教育会八代郡支会、1927年 。
- 熊本県八代郡宮地国民学校 編『国立国会図書館デジタルコレクション 宮地郷土史読本』熊本県八代郡宮地国民学校、1941年 。
関連項目
外部リンク
- 八代城 - 八代市立博物館・未来の森ミュージアム(模型を常設展示)
- 白鷺城復活の会
- 「八代城ものがたり」パンフレットPDF(八代市観光振興課)
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- ^ 磯田正敬 1884
- ^ a b 石垣に白い石を用いたことから[1]。
- ^ 当時は城の西は干拓されておらず、不知火海(八代海の異称)が外郭のすぐ近くまで来ていたため、不知火城とも言った。
- ^ a b 平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。
- ^ 地名。松江町。
- ^ 国の史跡指定に伴い、熊本県の史跡としての「八代城跡」と「平山瓦窯跡」の指定は解除された。(参照:八代市の指定文化財一覧)
- ^ 熊本県八代市奈良木町にあった。現在の奈良木神社の近く。古麓城との位置関係は球磨川の対岸にあたる。
- ^ 萩原堤は球磨川の湾曲部から八代城を一回りして北の丸まで続く長い堤防。名和・相良氏が築いたものを加藤氏が延長した。
- ^ 長男加藤忠正は疱瘡を患って八代で死去した。
- ^ 麦島城時代にすでに一国二城体制が特別に許されており、島原の乱を契機とするキリシタン弾圧の備えとは、後付けされたものであろう。
- ^ 他方で、加藤時代の慶長年間にキリシタン弾圧と改宗の強制が大規模に進められたのは事実で、熊本加藤藩の負の歴史である。隠れキリシタンは隣藩の相良藩でも多く見られ、隠れキリシタンの墓が各所に残っている。
- ^ 松井康之は織田信長によって細川藤孝の与力とされた時に山城国相楽郡160石の所領を与えられており、松井氏はそれを保持して秀吉、家康と代々安堵されていて、旗本としても徳川家に代々仕える立場だった。
- ^ 建物以外にも、石垣の修復が数回行われており、熊本県立図書館や永青文庫(熊本大学附属図書館寄託資料)に絵図が所蔵されている。現在でも、月見櫓跡石垣等で、修復の痕跡を見ることができる。
- ^ 『宮地郷土史読本』p.195
- ^ 外から見ると四層であるが、内面が五層構造のため、地階つきで5層6階、大天守を五層とも表現する。
- ^ 高さ36尺、東西66尺、南北75尺。
- ^ 高さ32尺、東西29尺、南北43尺。
- ^ 八代市役所の真横から入る小さい入口が八代城の本来の正門。欄干橋はもとは木造の太鼓橋であったが、現在はコンクリート製の平坦な橋となっている。
- ^ 現在は廊下橋はなく、八代宮の北参道神橋がある。
- ^ 敷地は旧八代総合病院(現熊本総合病院)のあった場所。
- ^ 現在の市庁舎は旧八代高校敷地でその前がこの郷校があった。
- ^ 興長は藩主の姓である長岡姓を賜り、以後代々長岡も名乗った。
- ^ 明治になって松井姓に復している。
[前の解説]
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