八代城 前史

八代城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 07:55 UTC 版)

前史

八代地方には中世以後大小多数の城塞が築かれたが、松江城以前に存在した古麓城と麦島城も八代城と呼ばれてきた。これらは同時期には存在しておらず、三つの城はそれぞれ築城地の具体的な地名を名前の由来にしており、松江にあった城を松江城、古麓にあった城を古麓城、麦島にあった城を麦島城と呼んでいる。

古麓城

古麓城(ふるふもとじょう)は、八代市古麓町の東側の山岳にあった南北朝時代から戦国時代にかけて築かれた城塞群で、南朝方の重要拠点であった。八代には一時、征西府、高田御所(こうだごしょ)[7]が置かれ、その名残りとして懐良親王御墓がある。中世で八代城といえばこの古麓城をさした。城塞は7つの山城であり、名和氏が築いた五城と、相良氏が築いた二城に分かれる。戦国大名相良義滋の居城であった鷹峯城も後者の一つ。貿易港徳淵津 (徳渕津)の発展もこの頃のことである。相良氏はその後島津氏に屈し、さらに島津氏は豊臣秀吉九州征伐を受けた。その後に肥後国を領した佐々成政は、肥後国人一揆を引き起こした責により翌年改易・賜死となるが、球磨郡を除く肥後国は加藤清正小西行長が半国ずつを領することになり、この時に古麓城は廃城となった。

麦島城

宇土城主となって古麓城を廃した小西行長は、家臣の小西行重に命じて球磨川の三角州に総石垣造りの麦島城を築城させた。麦島の地は北西側が大きな入江となっており、後に開削された前川によって中洲となった。平城の中でも水城(みずじろ)と呼ばれる水運・水利を最大限に活用した特異な城で、船で直接海からも出入りできたと考えられている。豊臣秀吉の直轄地とされ貿易港徳渕津が近くにあって、海上交通の要所であった。天正20年(1592年)6月、文禄の役の間隙を縫って梅北一揆が麦島城に攻め寄せたが撃退している。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた行長が刑死し、小西家は改易となった。球磨郡天草郡を除く肥後52万石を与えられた熊本城主加藤清正は、重臣加藤正方(片岡正方)を城代として麦島城に入れた。元和一国一城令によって熊本藩内の南関城・内牧城佐敷城などが取り壊されても、麦島城は例外的に存続が認められていたが、元和5年(1619年)の大地震のために倒壊し廃城となった。


  1. ^ 磯田正敬 1884
  2. ^ a b 石垣に白い石を用いたことから[1]
  3. ^ 当時は城の西は干拓されておらず、不知火海(八代海の異称)が外郭のすぐ近くまで来ていたため、不知火城とも言った。
  4. ^ a b 平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。
  5. ^ 地名。松江町。
  6. ^ 国の史跡指定に伴い、熊本県の史跡としての「八代城跡」と「平山瓦窯跡」の指定は解除された。(参照:八代市の指定文化財一覧
  7. ^ 熊本県八代市奈良木町にあった。現在の奈良木神社の近く。古麓城との位置関係は球磨川の対岸にあたる。
  8. ^ 萩原堤は球磨川の湾曲部から八代城を一回りして北の丸まで続く長い堤防。名和・相良氏が築いたものを加藤氏が延長した。
  9. ^ 長男加藤忠正疱瘡を患って八代で死去した。
  10. ^ 麦島城時代にすでに一国二城体制が特別に許されており、島原の乱を契機とするキリシタン弾圧の備えとは、後付けされたものであろう。
  11. ^ 他方で、加藤時代の慶長年間にキリシタン弾圧と改宗の強制が大規模に進められたのは事実で、熊本加藤藩の負の歴史である。隠れキリシタンは隣藩の相良藩でも多く見られ、隠れキリシタンの墓が各所に残っている。
  12. ^ 松井康之織田信長によって細川藤孝の与力とされた時に山城国相楽郡160石の所領を与えられており、松井氏はそれを保持して秀吉、家康と代々安堵されていて、旗本としても徳川家に代々仕える立場だった。
  13. ^ 建物以外にも、石垣の修復が数回行われており、熊本県立図書館永青文庫(熊本大学附属図書館寄託資料)に絵図が所蔵されている。現在でも、月見櫓跡石垣等で、修復の痕跡を見ることができる。
  14. ^ 『宮地郷土史読本』p.195
  15. ^ 外から見ると四層であるが、内面が五層構造のため、地階つきで5層6階、大天守を五層とも表現する。
  16. ^ 高さ36尺、東西66尺、南北75尺。
  17. ^ 高さ32尺、東西29尺、南北43尺。
  18. ^ 八代市役所の真横から入る小さい入口が八代城の本来の正門。欄干橋はもとは木造の太鼓橋であったが、現在はコンクリート製の平坦な橋となっている。
  19. ^ 現在は廊下橋はなく、八代宮の北参道神橋がある。
  20. ^ 敷地は旧八代総合病院(現熊本総合病院)のあった場所。
  21. ^ 現在の市庁舎は旧八代高校敷地でその前がこの郷校があった。
  22. ^ 興長は藩主の姓である長岡姓を賜り、以後代々長岡も名乗った。
  23. ^ 明治になって松井姓に復している。






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