丹後杜氏 丹後杜氏の概要

丹後杜氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 16:05 UTC 版)

『日本酒造り唄集』(1935年)に描かれた「仕込み」の様子

江戸時代に、農閑期の冬に農家の男性が従事した酒蔵への出稼ぎ労働にはじまり、全盛期には約400人の丹後杜氏が近畿北陸地方などの酒蔵で活躍した[1][2]。なかでも多くの丹後杜氏が酒造りに携わった伏見においては、丹後杜氏から伏見杜氏組合長を輩出した歴史もあり、その功績を後世まで称えている[3][4]。丹後杜氏組合は後継者不足から2005年に解散した[5]

なお、「杜氏」とは本来は酒造りの技術集団の頭領のことをいうが、技術集団を語る場合は酒造所で働く人々を総称して「(地名)杜氏」と言う場合があり、文献においてもどちらの意で丹後杜氏と記されているものか判然としない[6][2][5]。そのため、本項目においても「杜氏」という言葉の対象が頭領を意味するのか蔵人も含めた職人全般を意味するのか、明確には区別できない箇所があることを注記しておく。

特徴

他地域の杜氏同様[7]、丹後杜氏は「農閑期を利用した農民」であることが、丹後杜氏の大きな特徴とされる[8]。その多くが旧丹後町東部の宇川地方の出身者であったことから、古くは「宇川杜氏」と呼ばれた[4][9]。宇川の基幹産業は主に稲作をはじめとする農業と、但馬牛の流れを汲む宇川牛を飼育した畜産にあったが、全般に零細で、特に農閑期の冬は、交通事情が改善される近年まで、積雪により冬籠りを余儀なくされたため、この間の3~4ヵ月ほどを「百日稼ぎ」と称する出稼ぎに充てることで糊口を凌いできたのが丹後杜氏である[10][11][12]。丹後杜氏は、量的な規模としては越後杜氏、丹波杜氏、但馬杜氏などと比べるとはるかに小規模であるものの、歴史は古く、伏見の名酒を生み出す技術は高く評価された[13]

酒造りにも丹後杜氏独特とされる醸造手法の特徴があり、「丹後流」と称される[14]。ひとつは麹を若めで使用することで、味は「おっとりと甘うまく」、少し白っぽい色合いになる[14]。同じ流儀を受け継ぐ越前・能登・広島等の杜氏組でも、麹はひながし(老麹)を使用しており、若麹を使用するのは丹後流の特徴といわれた[14]。また、酛を作るのに「蒸(米)・麹・水をハンギリで潰す」のも丹後杜氏独特の用法であった[14]

歴史

丹後地方からの酒造出稼ぎ人数の推移

1921年(大正10年) 256人
1939年(昭和14年) 412人
1954年(昭和29年) 260人
1960年(昭和35年) 346人
1963年(昭和38年) 251人
1965年(昭和40年) 370人
1966年(昭和41年) 356人
1967年(昭和42年) 300人
1968年(昭和43年) 290人
1969年(昭和44年) 269人
1970年(昭和45年) 251人
1974年(昭和49年) 238人
1976年(昭和51年) 208人
1977年(昭和52年) 151人
1978年(昭和53年) 210人
1979年(昭和54年) 186人
1980年(昭和55年) 177人
1981年(昭和56年) 168人
1982年(昭和57年) 160人

丹後杜氏組合資料より[15]

背景

丹後地方の出稼ぎの歴史は京都府の他の地域と比較して古く江戸時代以前に遡り、かつては丹後半島全域から多くの農夫が出稼ぎに出た[16]。山間部の集落からの出稼ぎがとくに多く、なかでも丹後町伊根町のバス路線からも遠く離れた山村集落では20世紀半ばまで多くの者が出稼ぎに出かけた[17]。行先は口丹波、伏見、山城、摂津、大和と近畿地方の広域に及び[16]、近畿以外では金沢にもその記録が残る[2]

出稼ぎ労働の発祥当時の文献は残されておらず、伝承によれば、寛政年間(1789~1800年)に奈良方面に出向いて寒天づくりを担ったことが知られている[11][18]。しかし、寒天づくりの労働期間は12月上旬から2月下旬までで、3月末まで雪に閉ざされる宇川の長い冬に比べると短かった。そのためこの出稼ぎ労働は長くは続かず、より長期間収入を得られる酒造りの出稼ぎ労働へ移行していった[10]。1799年(寛政11年)の『日本山海名産図会』では、旧暦7月24日の愛宕祭りにあわせて蔵入りする習慣があったことを「酒屋の雇人、此日より百日の期を定めて抱へさだむるの日にして、丹波丹後の困人多く幅奏するなり」と記録している[11][12]。こうして酒蔵への出稼ぎは「百日稼ぎ」と称されるこの地方の男性の慣行となった[11]。江戸時代の伝承では、宇川から離れた網野町磯の辺りにも酒造出稼ぎの慣習があったことがわかる[19]

米踏み労働

『日本酒造り唄集』(1935年)に描かれた「米踏み」の様子

丹後杜氏の発祥地であり、とくに多くの丹後杜氏が活躍した場は、伏見地方である。『伏見酒造組合誌』によれば、宇川地方の出稼ぎ労働者が最初に伏見に入ったのは江戸時代中期とみられる[11][12]。1778年(安永7年)には丹後出身の出稼ぎ者に職場を紹介する丹後宿が形成されており、この宿の由来によれば当時の伏見酒蔵への出稼ぎ労働者は丹後、越前、丹波、広島の者が多かった[20]。天保年間(1830~1843年)には「丹後勝」と呼ばれた小脇村出身の剛力者が、「確屋(うすや)」あるいは「唐臼屋」とも呼ばれた米踏み労働者として伏見へ出稼ぎに出向いていたことが特に記録される[21][20][10]

初期の酒蔵出稼ぎ者が従事した米踏作業は、唐臼で米を精米する単純な肉体労働で、そうした季節労働者の待遇は酒造り唄に「酒屋百日 乞食より劣る 乞食寝もすりや 楽もする」と歌われたように、言語に絶するものであった[22][11]。冬の数カ月の出稼ぎで寝具を与えられることもなく、米俵が安眠の場所であったといい、「五ツ ごっそり這い出す 臼や(確屋)の寝床」とも歌われた[8][22]。1886年(明治19年)頃に奈良の大和地方の酒蔵に出稼ぎに出たという丹後町鞍内出身者は当時の思い出を「ただ 足だけ動きゃあて きょうも あしたも あさっても 明けても暮れても 真白になって 六銭のやしい ききゃだ いうて(ただ足だけ動かして、毎日朝から晩まで 六銭の安い機械だと言われて)」と言葉少なに語っている[23]

やがて水車を動力として精米が行われるようになったことは酒蔵にとっても一大転機で、人間機械に等しかった米踏労働者の様相は一変した[23]。長く出稼ぎをしてきた丹後出身者のなかには、米踏作業が主であった時代から蔵人として経験を積んでいた者もいたが、多くの者はこの時期に単純な頭数から酒造りの職人として進出するようになったと考えられている[23][24]。伏見近郊で比較的早い時期、江戸時代の半ばから杜氏として酒造りに関わるようになった者は、越前杜氏の指導を受けて酒造りを覚えた。また、池田市辺りの酒蔵で学んだ者の中には丹波杜氏に師事した者もいたと伝えられる[16]

なお、伏見においては明治初年から大正期にかけて、京都疎水の落差を利用した水車動力による精米所が軒を連ねるようになっていた。1915年(大正4年)に電動力が導入されると、多くの酒造家は自家製米を行うようになったため、やがて水力精米所はすべて姿を消した[23]。伏見に次いで多くの丹後杜氏が出稼ぎに赴いた大和方面における水車動力の導入は、これよりやや遅かった[23]

酒造りへの進出

江戸時代の酒造りの手法を再現して醸造された日本酒「タイムマシーン1712」

杜氏として、宇川出身者の酒造りの技量が注目されるようになったのは、伏見においては江戸時代末期、文久-慶応年間(1861年-1868年)の頃である[24]。当時20余名の宇川出身の蔵人が伏見地方で酒造りに携わったほか、南山城や大和方面にも進出し、1881年(明治14年)頃には50名以上、明治末期から大正初期には300名以上が酒造りに従事して丹後杜氏の全盛期を築いた[24][11][2][12]

伏見では、鳥羽・伏見の戦いで多くの酒蔵が焼失し、復興には10年以上を要した。確実な販路を得たのは1877年(明治10年)以降であり、質量ともに充実し名声を高めたのは1889年(明治22年)に鉄道での流通が可能になったことによる。当時の伏見の杜氏は過半数が越前杜氏で、次いで丹後杜氏が多数だった[25]。伏見の酒蔵に従事した丹後出身の杜氏及び蔵人は、公的な記録に残されているだけでも1921年(大正10年)の時点で102人[24]、1939年(昭和14年)には385人(うち杜氏46人)[12]、1954年(昭和29年)には300人(うち杜氏25人)[12]、1976年(昭和51年)には193人(うち杜氏15人)おり、いつの時代においても丹後杜氏総数の約半数を占めた[24][注 1]。明治時代末期から昭和初期には、伏見地方の醸造業界を牛耳ったとも揶揄される発展を遂げた[24][2]。記録に残る1913年(大正2年)から1969年(昭和44年)にかけて、伏見酒造組合における歴代の丹後杜氏組合員検査立合人表彰者は、42回38名を数える[26]

太平洋戦争中には、大陸に多くの日本人が渡ったことから、現地での日本酒の需要に応じて出稼ぎ先の酒蔵から満州に派遣された丹後杜氏もいた[27][注 2]

出稼ぎ労働の変容

酒造出稼ぎの丹後地方出身者の年齢構成割合の推移(丹後杜氏組合資料より)[15]
49歳以下の人数(%) 50歳以上の人数(%)
昭和38年 89 11
昭和53年 38 62
昭和54年 32 68
昭和56年 26 74
昭和57年 23 77

質的な変化や量的な高まりは1955年(昭和30年)以後にみられる[17]。戦前まで、出稼ぎに出る者は経営耕地が30アール以下の零細農家の次男三男や未婚の女子が中心で、男子は酒蔵に、女子は機屋に赴くのが主であった[17]。しかし1955年(昭和30年)以降は世帯主の出稼ぎが多くなり、一例を挙げれば1968年(昭和43年)の伊根町からの出稼ぎ者214名のうち78パーセントにあたる169人は世帯主である[17]。これは、次男三男や未婚の女子がすでに転出(移住)してしまい、出稼ぎに出られる者が地元で農林漁業を営んでいる世帯主しかいなくなっていたことを意味している[17]。戦前までは「百日稼ぎ」と称された3~4カ月の出稼ぎ期間も、失業保険の給付との兼ね合いで実質6カ月就労する者が多くなり、こうした季節的労働の長期化と移住は離村現象ともみられ、集団で行われれば地元集落機能の崩壊、すなわち廃村現象となる[17]

昭和後期の出稼ぎは、半数以上が酒蔵に出向き、なかでも伊根町では8割以上が酒蔵に出向いた[17]。期間は秋の収穫が終わる11月から、翌年の苗代を始める4月までの間で、行先は伏見・西宮・灘・福知山など京阪神の酒蔵が多かった[17]

やがて、交通インフラが整ったことによる通勤圏の拡がりや、丹後地域の地場産業である丹後ちりめんの発展などにより生活手段が農業以外に求められるようになると、農閑期の生業であった出稼ぎは自然と衰退した。昭和後期の「かつて酒造出稼ぎに出ていた者で、現在は酒造出稼ぎを止めた人の理由」アンケートによると、回答者30名のうち40パーセントが機業(織物業)に、23.7パーセントが会社員など地元雇用や自営業に転職し、13.3パーセントが健康上の理由から、16.7パーセントが老齢により廃業している[28]

地域への影響

地域情報誌『宇川郷報』創刊号

宇川には「胴固め」と「冬忘れ」と呼ばれる風習がある。「胴固め」は秋に丹後杜氏らが出稼ぎに出る前に、旅路を共にする人員が揃って杜氏の家に集まり、宴会をする。「冬忘れ」は、春に出稼ぎから帰ると、やはり杜氏の家に集まって宴会をし、酒蔵での苦労を互いに労った。こうした慣習は、丹後杜氏の強固な師承関係の一端の顕われと考えられた[29]

また、蔵入りに旅立つ前には「酒屋呼び」と称して、親戚縁者や隣近所の人々を家に招き、ごちそうをふるまい、留守を頼んだ[30]。京都府立大学及び京都府立大学女子短期大学が1981年(昭和56年)~1982年(昭和57年)に宇川地域の557世帯を対象に実施した「酒造出稼ぎ者の留守宅での生活」に関するアンケートでは、調査対象の79.4パーセントが困り事として除雪作業の人手不足を挙げており、ついで30.7パーセントが役場などの手続きで困ると回答している[31]。一家の主や働き手を出稼ぎに送っている間、留守を預かる家族は秋の収穫の整理や藁仕事や春の農作業準備にあたったが、この間の生活が経済的に与える影響は少なく、丹後杜氏の出稼ぎは一家の収入源であるとともに集落の財政にも貢献したため高く評価されていた[29]。1950年代から1960年頃には、文部省産業教育指定校となった宇川中学校[注 3]に醸造部(酒造部)が設置されており、若年のうちから杜氏の養成に力が注がれていた[32][注 4]

出稼ぎに伴い、丹後杜氏は文化の仲立ちも果たしていた[32]。明治大正期の比較的早い段階から、宇川は丹後地方の最奥でありながら、丹後杜氏が持ち帰った様々な地方の観葉植物が庭先に植えられ、茶道や三味線などの奢侈品や、当時田舎ではみられなかった生活道具などが残されていた[33]

先覚者

辻井喜左衛門(1831-1899)
井上村(現・京丹後市丹後町井上)出身。36歳頃と推定される鳥羽・伏見の戦いの頃にすでに杜氏職にあり、村人に酒造技術を伝授し後進の育成に務めた。辻井が誰に師事し酒造りを習得したかは、丹後杜氏の発祥ともども不明である[34]。伏見地方への丹後杜氏の先駆けであり、丹後杜氏の始祖とされている[21][35]。明治大正時代の蔵人は総じて親類縁者であったため、親子2代、3代にわたる杜氏がざらにいた。辻井喜左衛門は親子3代にわたり杜氏を輩出し、そうした繋がりにより1921年(大正10年)頃には、井上集落はわずか15戸の小村でありながら12人の杜氏を輩出した[36][21]
岡野甚蔵(1836-1876)
上野村(現・京丹後市丹後町上野)出身。南山城地方への開拓の祖とされる。下宇川地域からの酒造出稼ぎの道を拓き、数多くの杜氏を育てた[35][36][21]
細田和吉(1837-1888)
袖志村(現・京丹後市丹後町袖志)出身。大和地方への開拓の祖で、酒造技術にとくに秀でていた[21]。大和の酒蔵は蔵と蔵が離れていたので、後輩杜氏の蔵を見回って指導するためには長い距離を移動する必要があったとはいえ、出稼ぎ労働者は乗り物を使えないのが通例であった時代に、つねに籠に乗って往来するほど大和で杜氏として高い名声を博した[35][16][36]
小倉庄助(1839-1921)
鞍内村(現・京丹後市丹後町鞍内)出身。大和地方で杜氏を務めつつ、とくに後進の育成に尽力した[36][21]。鞍内集落から大和地方へは多くの者が出稼ぎに出た[35][36]
岩崎熊治郎(1915-1995)
キンシ正宗に従事した杜氏で、長く伏見杜氏組合長として活躍し、1983年(昭和58年)に「卓越技能賞」の労働大臣表彰を受けた。キンシ正宗では、岩崎の後も丹後杜氏が引き継ぎ、全国新酒鑑評会で金賞受賞するなど活躍している[3]。1970年代には丹後杜氏組合の副組合長も務めた[37]

注釈

  1. ^ 丹後杜氏の人数については、同時期であっても文献により記録されている人数に差が大きく、京都府立丹後郷土資料館の文献『特別展 丹後の酒』を出典とする本文の数字は、1954年は『昭和一四年酒造年度組合会員名簿』、1954年は『伏見酒造組合誌』、1976年は『昭和五一酒造年度組合員名簿』に基づいている。なお、『丹後杜氏誌』では1954年(昭和29年)の丹後杜氏を125人(うち杜氏5人)としている。また、『丹後町史』では1939年(昭和14年)195人、1974年126人と記載しており、このうちの何名が杜氏であるかは記録していない。
  2. ^ 1933年(昭和8年)、「宇川杜氏成徳会」から満州へ丹後町畑出身の片山藤次郎(杜氏)を派遣。満州国新京に牧野七太郎酒造場が開設した満州酒造店で醸造を行った。また、鞍内出身の丹後杜氏・倉岡利吉が酒造勤務先の堀野商店の依頼により、同じく丹後半島出身の蔵人20人と家族を伴って海を渡り、中国北支豊台造甲村の亜細亜醸造にて日本酒を醸造した。(林保之氏の『宇川郷報』(京丹後市文化財保護課所有資料)の調査による。)
  3. ^ 2014年3月閉校。
  4. ^ 酒造教育の推進は国の指針で、学習の柱のひとつに醸造枠が設置されたことによる。また、丹後杜氏組合長(当時)岩崎熊治郎の依頼もあったが、一部教職員の反対もあり、遅くとも1963年には廃止されていた(丹後杜氏誌原稿のために収集された織戸昭徳氏のメモ、及び、1963年に同中学校に赴任した小林氏(下宇川自治区長)の2021年11月14日の証言による。)。
  5. ^ ルートは、「宇川―黒部―くすみ谷―大江山―福知山-檜山-老ノ坂-京都-伏見)と記録するもの、「宇川-黒部-内記-余部-奥大野-加悦-雲原-福知山-園部-老ノ坂-京都-伏見」と記録するものがあるが、ルート上に大きな差異はない。
  6. ^ 佐々木氏の論文『生活文化研究8 丹後杜氏の実態に就いて』182頁では5日間と記載。
  7. ^ 宇良神社所蔵

脚注

  1. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. i.
  2. ^ a b c d e f “丹後杜氏の歴史研究 林さん、7年の成果展示”. 毎日新聞. (2019年11月18日). https://mainichi.jp/articles/20191118/ddl/k26/040/239000c 2021年11月4日閲覧。 
  3. ^ a b 会社概要”. キンシ正宗. 2021年2月17日閲覧。
  4. ^ a b 片村有宏 (2019年11月18日). “丹後杜氏 熱意の歴史 今に”. 京都新聞 
  5. ^ a b c 片村有宏 (2021年1月21日). “伏見の酒づくり 丹後杜氏の足跡”. 京都新聞社: p. 20 
  6. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 131.
  7. ^ 「農漁村出身の酒造季節労務者」。菅間誠之助(2005)「杜氏」『世界大百科事典改訂版』20巻p.41。平凡社。
  8. ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 33.
  9. ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、418頁。 
  10. ^ a b c 『丹後町史』丹後町、1976年、416頁。 
  11. ^ a b c d e f g h i j 松田(1997), p. 181.
  12. ^ a b c d e f g h i 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、26頁。 
  13. ^ a b c 丹後半島学術調査報告書 生活構造の変化と福祉ニーズに関する研究-酒造出稼ぎ母村の生活条件と意識(宇川杜氏の場合)-『向井利栄』京都府立大学・京都府立大学女子短期大学部、1983年、26頁。 
  14. ^ a b c d e 佐々木秀子 1959, p. 30.
  15. ^ a b 丹後半島学術調査報告書 生活構造の変化と福祉ニーズに関する研究-酒造出稼ぎ母村の生活条件と意識(宇川杜氏の場合)-『向井利栄』京都府立大学・京都府立大学女子短期大学部、1983年、31頁。 
  16. ^ a b c d e 岩崎熊治郎『酒造り丹後流』 78巻、12号、1983年、916頁。 
  17. ^ a b c d e f g h i 日本地誌研究所『日本地誌 第14巻 京都府・兵庫県』二宮書店、1973年、208頁。 
  18. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 31.
  19. ^ 『丹後の伝説ふるさとのはなし』奥丹後地方史研究会丹後の民話編集委員会、1973年、58-59頁。 
  20. ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 32.
  21. ^ a b c d e f g h i j k 松田(1997), p. 182.
  22. ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 33.
  23. ^ a b c d e 丹後杜氏誌(1995), p. 34.
  24. ^ a b c d e f 『丹後町史』丹後町、1976年、417頁。 
  25. ^ 岩崎熊治郎『酒造り丹後流』 78巻、12号、1983年、917頁。 
  26. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 81.
  27. ^ “海を渡った丹後杜氏、満州で日本酒造り 邦人激増し需要拡大、酒が唯一の慰安”. 京都新聞. (2021年1月21日). https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/473738 2021年11月11日閲覧。 
  28. ^ 丹後半島学術調査報告書 生活構造の変化と福祉ニーズに関する研究-酒造出稼ぎ母村の生活条件と意識(宇川杜氏の場合)-『向井利栄』京都府立大学・京都府立大学女子短期大学部、1983年、32頁。 
  29. ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 34.
  30. ^ a b c 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、29頁。 
  31. ^ 丹後半島学術調査報告書 生活構造の変化と福祉ニーズに関する研究-酒造出稼ぎ母村の生活条件と意識(宇川杜氏の場合)-『向井利栄』京都府立大学・京都府立大学女子短期大学部、1983年、39頁。 
  32. ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 35.
  33. ^ 佐々木秀子 1959, p. 36.
  34. ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 28.
  35. ^ a b c d e 『丹後町史』丹後町、1976年、418頁。 
  36. ^ a b c d e 丹後杜氏誌(1995), p. 38-39.
  37. ^ a b 『丹後町史』丹後町、1976年、419頁。 
  38. ^ 日本地誌研究所『日本地誌 第14巻 京都府・兵庫県』二宮書店、1973年、209頁。 
  39. ^ a b c 丹後杜氏誌(1995), p. 41.
  40. ^ a b c 佐々木秀子 1959, p. 27.
  41. ^ 日本地誌研究所『日本地誌 第14巻 京都府・兵庫県』二宮書店、1973年、209-210頁。 
  42. ^ 東世津子『小脇の子安地蔵さん』あまのはしだて出版、1997年、47頁。 
  43. ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 112-128.
  44. ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 45.
  45. ^ a b 『丹後杜氏誌』丹後町教育委員会、1995年、46頁。 
  46. ^ a b c 丹後杜氏誌(1995), p. 47.
  47. ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 29.
  48. ^ a b c 丹後杜氏誌(1995), p. 49.
  49. ^ 松田松男『戦後日本における農家出稼ぎの変貌 : とくに酒造出稼ぎをめぐる地理学的研究』立教大学、1997年、182頁。 
  50. ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 53.
  51. ^ “「アユのかす漬け」復活に意欲”. 京都新聞. (2018年9月29日) 
  52. ^ 『かわとひととふるさと うかわ』上宇川地区公民館、19890901、82頁。 
  53. ^ “「アユのかす漬け」復活に意欲”. 京都新聞. (2018年9月29日) 
  54. ^ a b c 丹後杜氏誌(1995), p. 132.
  55. ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 128.
  56. ^ 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、18-19頁。 
  57. ^ 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、20頁。 
  58. ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 86.
  59. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 112.
  60. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 133.
  61. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 56-58.
  62. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 56.
  63. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 58.
  64. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 59.
  65. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 60.
  66. ^ a b c d 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、5頁。 
  67. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 2.
  68. ^ a b c d e f g 丹後杜氏誌(1995), p. 3.
  69. ^ a b 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、6頁。 
  70. ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 4.
  71. ^ 西本願寺所蔵
  72. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 6-8.
  73. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 7.
  74. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 11.
  75. ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 10.
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