トマス・アクィナス
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トマス・アクィナス | |
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トマス・アクィナス像、15世紀、カルロ・クリヴェッリ作 | |
生誕 |
1225年頃 シチリア王国・ロッカセッカ |
死没 |
1274年3月7日 シチリア王国・フォッサノヴァ |
崇敬する教派 | カトリック教会、聖公会 |
列聖日 | 1323年7月18日 |
列聖場所 | フランス アヴィニョン |
列聖決定者 | ヨハネス22世 |
主要聖地 | フランス・トゥールーズのジャコバン教会 |
記念日 | 1月28日 |
守護対象 | カトリック学校・大学[1] |
別名 | Doctor Angelicus (神の使いのような博士) |
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時代 | 中世哲学 |
地域 | 西洋哲学 |
出身校 |
モンテ・カッシーノ修道院 ナポリ大学 パリ大学 |
学派 |
スコラ学 トマス主義 アリストテレス主義 主知主義 実在論 en:Moderate realism 素朴実在論 徳倫理学 自然法 真理の対応説[2] |
研究分野 | |
主な概念 | |
影響を与えた人物
|
カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の教会博士33人のうち1人。イタリア語ではトンマーゾ・ダクイーノ (Tommaso d'Aquino) とも表記される。
生涯
1225年ごろ、トマスは南イタリアの貴族の家に生まれた。母テオドラは神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家につらなる血筋であった。生まれたのはランドルフ伯であった父親の居城、ナポリ王国アクイーノ近郊のロッカセッカ城であると考えられている。伯父のシニバルドはモンテ・カッシーノ修道院の院長をしていたため、やがてトマスもそこで院長として伯父の後を継ぐことが期待されていた。修道院にはいって高位聖職者となることは貴族の子息たちにはありがちなキャリアであった[7]。
こうして5歳にして修道院にあずけられたトマスはそこで学び、ナポリ大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は当時、フランシスコ会と共に中世初期の教会制度への挑戦ともいえる新機軸を打ち出した修道会であり、同時に新進気鋭の会として学会をリードする存在であった。家族はトマスがドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的にサン・ジョバンニ城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁されて翻意を促された。初期の伝記によれば、家族は若い女性を送り込み、トマスを誘惑させたが、トマスはそれを追い払った[8]。
ついに家族も折れてドミニコ会に入会を許されるとトマスはケルンに学び、そこで生涯の師とあおいだアルベルトゥス・マグヌスと出会った。おそらく1244年ごろのことである。1245年にはアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年同地ですごし、1248年に再び二人でケルンへ戻った。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった[9]。トマスは非常に観念的な価値観を持つ人物であり、同時代の人と同じように聖なるものと悪なるものをはっきりと区別するものの見方をしていた。あるとき、自然科学に興味があったアルベルトゥスがトマスに自動機械なるものを示すと、トマスは悪魔的であるとしてこれを批判した。
1252年にドミニコ会から教授候補としての推薦を受けてパリに赴き、規定に則り講師として数年講義を行うことで学位(教授認可)を取得しようとしたが、当時パリ大学の教授会は托鉢修道会に対して敵対的であり、学位取得は長引いた[10]。講師として教鞭を執りながら取得を待ったトマスは1256年は学位を取得してパリ大学神学部教授となり[11]、1257年には正式に教授会に迎え入れられた[12]。1259年にはヴァランシエンヌでおこなわれたドミニコ会総会に代表として出席した[13]。
1259年にパリ大学を辞任したのちイタリアに戻り、1261年頃にはオルヴィエートのドミニコ会修道院で教鞭を執りつつ、教皇ウルバヌス4世の願いによって聖書註解や神学研究を行った[14]。1265年にはドミニコ会の命により、ローマのサンタ・サビーナ聖堂で神学大学を設立した[15]。
1269年再びパリ大学神学部教授になり、シゲルスを中心とするラテンアヴェロエス派や、ジョン・ペッカムを中心とするアウグスティヌス派と論争を繰り広げる[16]。同時代の人々の記録によるとトマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい[17]。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ[18]。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという[19]。そしてひとたび彼が話し始めるとその論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。
1272年のフィレンツェの教会会議において、トマスは、ローマ管区内の任意の場所に神学大学を設立するように求められ、温暖な故郷ナポリを選び、著作に専念して思想を集大成に努めるようになった[20]。
1274年の初頭、教皇は第2リヨン公会議への出席を要請した。トマスは健康状態が優れなかったが、これを快諾し、ナポリからリヨンへ向かった。しかし、道中で健康状態を害し、ドミニコ会修道院で最期を迎えたいと願ったが、かなわずソンニーノに近いフォッサノヴァ(現在はプリヴェルノ市の一部)のシトー会修道院で世を去った。1274年3月7日のことであった。シトー会士たちは遺体をドミニコ会側に渡すまいと、棺を修道院内に隠す、頭を切り離す、骨だけにするために遺体を煮込むなどの暴挙をあえて行ったともいわれているが、教皇の命令により1369年になってようやく遺骨がドミニコ会に引き渡された[21]。トマスの遺骨の納められた墓は、フランス・トゥールーズのジャコバン教会に存在する[22]。
トマスは会う人すべてに強い印象を与えている。彼はパウロやアウグスティヌスと並び立つ人物といわれ、Doctor Angelicus(神の使いのような博士)と呼ばれた。1319年にトマスの列聖調査が始められ、1323年7月18日、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世によって列聖が宣言され、聖人にあげられている[23]。
1545年のトリエント公会議。議場に設けられた祭壇の上には二つの本だけが置かれていた。一つは聖書、そしてもう一つはトマス・アクィナスの『神学大全』であった[24]。
思想
トマスの最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことである。かつてはトマスは単なるアリストテレス主義者にすぎないという見方もあったが、最近の研究ではそのような見方は否定されている[25]。
トマスはアヴィケンナやアヴェロエス、アビケブロン、マイモニデスなどの多くのアラブやユダヤの哲学者たちの著作を読んで研究し、その著作においても度々触れている[26]。そこから、トマスは単なる折衷家にすぎないとの見方も根強いものがあったが[27]、現在では、「存在」(エッセ)の形而上学がトマス的総合の核心であり、彼独自の思想である点に見解の一致があり、その存在をどのように解釈するかによって様々な立場に分かれるとされている[28]。
全体的にみれば、トマスは、アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しつつも、哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移した上で、神学と哲学の関係を整理し、神中心主義と人間中心主義という相対立する概念のほとんど不可能ともいえる統合を図ったといえる。
トマスの思想は、その死後もトマス主義として脈々と受け継がれ、近代の自然法論や国際法理論や立憲君主制にも多大な影響を与えただけでなく、19世紀末におきた新トマス主義に基づく復興を経て現代にも受け継がれている。
神学
トマスの生きた時代は、十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻いていた。
トマスは、このような時代背景の下、哲学者アリストテレスの註釈家と呼ばれていたアヴィケンナやアヴェロエスとは、キリスト教の真理を弁証する護教家として理論的に対決する必要に迫られていた[26]。また、トマスは、同様に、アビケブロンのみならず多くのユダヤ人思想家とも対決をしなければならなかった[注 1]。トマスは、アリストテレスの存在論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えて彼を乗り越えようとしたのであり、哲学は「神学の婢」(ancilla theologiae)であった。
アリストテレス自然哲学とキリスト教神学の調停
アリストテレス自然哲学による二元的宇宙像は、地上界の出来事には必然的に天上界が作用するという考え方の基本となった。この考え方には、「地上界のあらゆる出来事は天上界の動きによって予め決まっている」という運命決定論と、逆に天上界の運行がわかれば未来を予測できるという占星術が含まれていた[29]。この「自然が自身の法則性にのっとって自律的に振る舞う」という古代ギリシャ自然哲学の世界観は神による奇蹟を認めるキリスト教とは相容れなかった。
キリスト教会は、400年の第1トレド教会会議で占星術の排斥を決議し、さらに561年の第1プラガ教会会議でも占星術を公式に否定した[30]。その後、ヨーロッパでは、古代ギリシャ哲学の書物はイスラム圏に流出したもの以外は教会の書庫の奥に眠ることとなり、その内容は次第に忘れ去られていった。
ところが12世紀ルネサンスの過程で、イスラム圏からの流入によって、ヨーロッパの知識人たちはアリストテレス自然哲学を知ることになる。そしてアリストテレスの自然哲学が大学で教育され西欧の知識階級に浸透してゆく過程で、二元的宇宙像とそれに基づく占星術は一般の人々を広く魅了して浸透していった。キリスト教は、一方的な禁止や弾圧ではアリストテレス自然哲学を抑えきれなくなっていった。トマスはその危機に直面したキリスト教神学を救った。
問題は「アリストテレスの二元的宇宙像では天上界が地上界のどこまで影響を及ぼすのか」ということだった。トマスは、「物体としての天体は物体としての人間の身体には作用するが、非物体としての人間精神や意志には直接作用することはない。」と解釈してキリスト教神学とアリストテレスの自然哲学を調停した。彼の神学思想は、死後一時異端と判断されたが、1322年に復権してキリスト教世界で公式に認められ、14世紀中期に正統神学の地位を確立した[30]。
一方で、トマスのおかげで、アリストテレスなどによる古代ギリシャ自然哲学は公に研究できるようになった。これによるアリストテレス自然哲学などの研究は、17世紀のいわゆる「科学革命」へとつながっていった[31]。
哲学
トマスは、その哲学において、アリストテレスの「形相-質料」(forma-materia)と「現実態-可能態」の区別を受け入れる。アリストテレスによれば、存在者には「質料因」と「形相因」があるが、存在者が何でできているかが「質料因」、その実体・本質が「形相因」である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが「可能態」であり、それが生成したものが「現実態」である。「形相-質料」は主に質量を持つ自然界の存在者に限られるが、「現実態-可能態」は自然界を超越した質量を持たない形相のみの存在者にまで及ぶ。すべての存在者は可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、すべての存在者の究極の原因であり、「神」(不動の動者)は質料をもたない純粋形相でもあった。
しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼は、アリストテレスの存在に修正を加え、「存在-本質」(esse-essentia)を加えた。彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であり、「本質」はそれだけで現実に存在できないため「可能態」である。「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。神は、自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。
人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られるのである。
法・政治論
トマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から、永久法の観念を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永遠法を「分有」することによって把握する自然法を導き出し、その上で、人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される人定法と神から啓示によって与えられた神定法という二つの観念を導きだした[32]。その詳細は以下のとおり。
永久法とは、この宇宙を支配する神の理念であり[33]、そのうち、理性的被造物たる人間が分有しているものが、自然法である[34]。そして、自然法のうち、人間が何らかの効用のために特殊的に規定するものが人定法であり[35]、人間がより強く永久法に与れるように、神から補助的に与えられたものが神定法である[36]。すなわち、人間の能力には限界があるために、人々は永久法から与った自然法にもとづいて適切に人定法を制定するということができず、また、様々な意見の対立が生じるので、それを補うために神から与えられたものが、神定法である。ここで、神定法として念頭に置かれているのは、旧約聖書と新約聖書において命じられている事柄であり、前者は旧法(lex vetus)、後者は新法(lex nova)と呼ばれる[37]。永久法は、神のうちにある最高の理念であり[38]、あらゆる法 の源泉である[39]。このような永久法の一部である自然法は、あらゆる人定法の源泉であり、その妥当性の基準となるとして、トマスは、永久法・自然法・人定法の階層構造を認めたのである[40]。
注釈
出典
- ^ “「教皇ベネディクト十六世の228回目の一般謁見演説 聖トマス・アクィナス(二)」”. カトリック中央協議会 (2010年6月16日). 2022年11月5日閲覧。
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- ^ Sadler, Greg (2006), “Anselm of Canterbury (1033–1109)”, Internet Encyclopedia of Philosophy 2017年11月10日閲覧。
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- ^ 気象学と気象予報の発達史 アリストテレスによる宇宙像. 堤 之智. 丸善出版. (2018.10). ISBN 978-4-621-30335-1. OCLC 1076897828
- ^ a b 山本義隆 (2014). 世界の見方の転換1 天文学の復興と天地学の提唱. みすず書房
- ^ “気象学と気象予報の発達史: トマス・アクィナスによるアリストテレス自然哲学とキリスト教の調停”. 気象学と気象予報の発達史 (2020年10月5日). 2020年10月8日閲覧。
- ^ 稲垣 1999, pp. 430–433.
- ^ トマス・アキナス『神学大全』第2部の1第91問題第1項
- ^ トマス・アキナス『神学大全』第2部の1第91問題第2項
- ^ トマス・アキナス『神学大全』第2部の1第91問題第3項
- ^ トマス・アキナス『神学大全』第2部の1第91問題第4項
- ^ トマス・アキナス『神学大全』第2部の1第91問題第5項
- ^ トマス・アキナス『神学大全』第2部の1第93問題第1項
- ^ トマス・アキナス『神学大全』第2部の1第93問題第3項
- ^ 高坂 1971, p. 36.
- ^ 稲垣 1999, pp. 240–258.
- ^ 稲垣 1999, pp. 144–146.
- ^ 創文社が2020年に会社解散したため、講談社「創文社オンデマンド叢書」に移行。上製・全巻組も刊
- ^ 元版は『トマス・アクィナス 世界の名著』山田晶責任編集、中央公論社、1975年。創文社版でも第1・2冊目。
- ^ 前半は「徳論」「法論」、後半2巻は山本芳久編訳で『神学大全』全体から重要な箇所を抜粋訳。
- ^ 第2期・28巻目での刊行。初邦訳は『資本利子及企業利得論 抜萃神学大全』、高畠素之・安倍浩訳、而立社「經濟學說體系3」、大正12年(1923年)。原著 Augustae Taurinarum 1913年版
- ^ 旧訳に『聖トマス 形而上学叙説-有と本質とに就いて』(高桑純夫訳、岩波文庫、初版1935年 度々復刊)
- 1 トマス・アクィナスとは
- 2 トマス・アクィナスの概要
- 3 著作
- 4 関連文献
- 5 脚注
- 6 外部リンク
トマス・アクィナスと同じ種類の言葉
固有名詞の分類
思想家 |
高弁 竹田青嗣 トマス・アクィナス メーヌ・ド・ビラン レフ・シェストフ |
教育関係人物 |
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