エレウシスの秘儀 エレウシスの秘儀の概要

エレウシスの秘儀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 06:54 UTC 版)

エレウシスの遺跡。背後に見えるのはサロニコス湾

この密儀は農業崇拝を基盤とした宗教的実践から成立したと考えられている[2][3]。紀元前15世紀のミュケナイ期から古代ローマまで約2000年間にわたって伝わり[4]古代ギリシア密儀宗教としては最大の尊崇を集めた[5]。主要な祭儀は毎年秋に催され、アテナイの祝祭として取り込まれた後は、春のディオニューシア祭、夏のパンアテナイア祭と並んで「アテナイの三大祭」といわれた[6]

密儀の主題は、ギリシア神話において穀物と豊穣の女神デーメーテールの娘コレー[注釈 1]が冥府の神ハーデースによって誘拐される物語に基づいている。冥府から地上に帰還するペルセポネーは死と再生の神として、世代から世代へと受け継がれる永遠の生命を象徴している。入信者たちはこの密儀によって死後に幸福を得られると信じていた[7]

儀式の中核部分は公開されず、秘密が厳格に守られたために現代に伝わっていない。しかし、『ホメーロス風讃歌』をはじめとする文献資料のほか、エレウシスの遺跡から出土した絵画や陶器の断片からその内容についてさまざまな推測や議論がなされている。

歴史

エレウシスの遺跡平面図。エレウシス考古学博物館。

起源

エレウシスに最初に住んだのはトラキア人だった[4]。地名のエレウシス(Ἐλευσίς)は、ギリシア神話において死後の楽園を意味するエーリュシオン(Ἠλύσιον)と関連がある[8]。また、秘儀・密儀(μυστήριον, 英語:mystery)の語形は、おそらくはインド・ヨーロッパ語根で口を閉じるmu-に由来するもので、「儀礼的沈黙」を表している[9]

エレウシスでデーメーテールの名で捧げられた現存する最古の奉納品は紀元前8世紀のものである。ただし、線文字B文書には「ダマテ」という記載があり、これがデーメーテールを意味するとすれば、ミュケナイ期紀元前1450年 - 1150年頃)からこの名で礼拝された可能性がある[10]。また、アッティカで発見されたエレウシニオン神殿[注釈 2]跡は、それらが古い農耕信仰に基づいていることを示唆している[12]。デーメーテールはもともとギリシアのすべての地方とギリシア植民地で崇拝された女神であり、新石器時代大地母神の後継者だった[13]。このような農耕信仰に基づいた祭式は、クレタ島アリアドネー信仰のほか、近東古代オリエントの宗教社会にも見られることが比較研究によって判明している。そうした例として、古代エジプトイシスオシリスの密儀、フェニキア(現シリア)のアドーニス信仰、ペルシアの密儀、フリギアカベイロスの密儀が挙げられる[14]

エレウシス遺跡の中心部、テレステリオン跡。

エレウシスの祭儀堂テレステリオン英語版の発掘調査により、アテナイ時代の神殿遺構の下からミュケナイ期のメガロンの遺構が出土している。メガロンの長さは9.5メートル、幅5.7メートルで、紀元前1450年から1100年頃まで使用されたと考えられている。このメガロンが王の住居であったのか神殿であったのかについては議論があるが、この遺構に獣を犠牲として焼いた痕跡があることから、最近の研究ではミュケナイ期から聖所としての役割があった可能性が指摘されている[15]。これらにより、密儀が始められたのは紀元前15世紀と見られる[4]

また、初期ミュケナイ期以前のギリシア本土では、宗教実践を示す証拠がほとんど見られないことから、おそらくミュケナイ人はミノア文明の信仰を受け容れることでその空白を埋めていたとも推測されている[16]。クレタ島を起源とする出産と助産を司る女神エイレイテュイア(Εἰλείθυια)は、ラコニアメッセニアではエリュシア(Ἐλυσία)と呼ばれており、「エレウシニオスの月」(ラコニア暦の2月)やエレウシスとの関係が考えられる[17]。さらに、『ホメーロス風讃歌』の「デーメーテール讃歌」123行目にはデーメーテール自身がクレタ島から海を渡ってやってきたという身の上話をする場面がある[18]ハンガリー神話学カール・ケレーニイ(1897年 - 1973年)によれば、デーメーテールはケシの神であり、クレタ島からエレウシスにケシが持ち込まれたという[19]。一方、ルーマニアの宗教学者で『世界宗教史』の著者ミルチャ・エリアーデ(1907年 - 1986年)は、最近の発掘はエレウシスの建造物にクレタからの影響があったという仮説の誤りを示しているとする[20]

古典期

古典期のエレウシスの復元模型。中央がテレステリオン。右側の小さな祠はプルート神殿。エレウシス考古学博物館。
古代ローマ時代のエレウシスの復元模型。テレステリオンは拡大され、プロピュライア(右端)、柱廊などが増設されている。エレウシス考古学博物館。

エレウシスの隣国にはアテナイがあり、エレウシスは早い段階でアテナイの支配下に入ったらしい。その時期ははっきりしないが、遅くとも紀元前6世紀半ばにはエレウシスはアテナイに併合されていたと考えられている[5]。考古学的研究からは、紀元前8世紀からアッティカで生産されるようになった土器群がエレウシスで集中的に出土しており、この時期にエレウシスがアッティカに帰属し、政治的にもアテナイに併合されたことを示唆するという指摘もある[21]

ギリシア神話には、エレウシスとアテナイの対立を物語るエピソードが見い出せる。たとえばアテナイの神話的な王エレクテウスの時代、両国の間に戦争が起きたとされる。このとき、ポセイドーンキオネーの子で密儀の創設者といわれるエウモルポスは、トラキアの兵を率いてアテナイ軍と戦い、討ち死にした[22][23]。また、アテナイの英雄テーセウスレスリングを挑んで殺されたケルキュオーンは、エレウシスの英雄だった[24][25]。このエレクテウス王時代の戦争について2世紀ギリシアの旅行家パウサニアスは、エレウシスは密儀を独自に執行する代わりに、アテナイに服属することで戦争を終結させたと記している[26][27]

以降、エレウシスの秘儀はアテナイの祝祭に組み込まれ、アテナイの発展とともに普及していった[5]僭主ペイシストラトス(紀元前6世紀頃 - 前527年)の時代以降に見られる、新たな建築物や建物の再建は、祭儀の飛躍的発展を物語っている[4]。エレウシスの秘儀は全ギリシア的規模となり、ギリシア周辺からも入信のための参加者が集まった。紀元前300年頃には、アテナイが国家として秘儀の主催を引き継いだ。祭儀はエウモルポスとその息子ケーリュクス英語版から起こったとされる二つの家系(「エウモルピダイ」及び「ケーリュクス」)によって取り仕切られ、入信者の数は大幅に増加した。男女を問わず、奴隷も入信が許された[28]。アテナイでは年間を通じて公的行事として祝祭が執行されたが[29]、数多い祝祭の中でも春のディオニューシア祭、夏のパンアテナイア祭と並んで、秋のエレウシスの秘儀祭(大密儀)は最も盛大であり、しばしば「アテナイの三大祭」といわれる[6]

エレウシスの碑文には、デーメーテールに命じられ、竜の戦車に乗って世界中に農耕を伝えたとされる神話的英雄トリプトレモスのほか、ペルセポネーが冥界から戻る道を導くエウブーレウス英語版について言及がある[30]。紀元前500年頃の壺絵には有翼の戦車に乗るトリプトレモスが盛んに描かれており、トリプトレモスが農耕を伝搬する使者の役割を担うことになったのは、この頃からと見られる[31]

古代ローマ期・終焉

エレウシスのプロピュライア跡に残るローマ皇帝マルクス・アウレリウスの胸像。大規模なプロピュライアを建設した。

古代ローマの初代皇帝アウグストゥスは紀元前20年、ギリシアを支配下に置いた。アウグストゥスは、インドの王ポロスからの親善使節がエレウシスの秘儀を見たいと熱望したのに応えて、季節外れだったにもかかわらず臨時に秘儀を催させ、自身もこれに参加したという[32]。また、2世紀前半の皇帝ハドリアヌスは、ギリシア文化への傾倒からエレウシスの秘儀に入信している[33]

170年にエレウシスはサルマタイによって略奪を受けたが、皇帝マルクス・アウレリウスがこれを修復した。アウレリウスは、テレステリオン内で聖職者しか入れないアナクトロンへの常時入場を認められた唯一の皇帝となった。しかし、4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国でキリスト教の支持が高まると、エレウシスの権威は薄れた。「異教徒皇帝」と呼ばれるユリアヌス(治世:361年 - 363年)がエレウシスの秘儀を復興させるが、彼はローマ皇帝として最後の入信者となった[34]

約30年後の392年、皇帝テオドシウス1世は法令を発してエレウシスの聖域を閉鎖した。396年には西ゴート族の王アラリック1世の襲撃によって、密儀の最後の残滓も一掃され、古代の聖域は荒廃した[35]

神話

デーメーテールとコレー 紀元前500-475年、大理石レリーフ。エレウシス考古学博物館。

デーメーテールの神話で最も有名なエピソードは、冥府の王ハーデースによって略奪された娘ペルセポネーを探して諸国を放浪するというものである。このエピソードはエレウシスの密儀や農業の起源譚、あるいはデーメーテールの娘でアルカディア地方の密儀の主神であったデスポイナ女神の誕生譚となっている[注釈 3]。紀元前4世紀から前5世紀にかけてのアテナイの修辞学者・弁論家イソクラテスは演説『パネギュリコス』(紀元前380年)の中で、密儀の由来と広がりについて、デーメーテールが放浪中にエレウシスに立ち寄り、穀物の栽培を教えたと語っている[37]。 農耕発祥の由来において、二柱の女神に次いで重要な位置を占めているのはトリプトレモスである。彼はエレウシス王ケレオスとその妃メタネイラ英語版の子で、デーメーテールは彼の両親から受けた好意に報いて、トリプトレモスに翼ある竜の戦車を与え、麦の栽培を世界の人々に教えるべく旅立たせた。トリプトレモスはまた、アッティカのデーメーテールの祭であるテスモポリア祭の創始者とされる[38][39]。ところがトリプトレモスはエレウシスの伝承において必ずしも重視されているわけではない。

エレウシスの密儀に関する最も重要な文献は『ホメーロス風讃歌』の第2歌「デーメーテール讃歌」(紀元前8世紀頃成立)である。これはペルセポネー略奪の物語を伝える最古の詩である[40]。この讃歌においてデーメーテール自身による密儀の伝授と創始が語られていることから、神話と密儀は互いに説明し合う表裏一体の関係にあると考えられている[41]。以下に、「デーメーテール讃歌」の要約を述べる。

「デーメーテール讃歌」

アプリア赤絵式ヒュドリア。紀元前340年頃。上段に神々の集い、中段にエレウシスの密儀が描かれている。
アプリアの赤絵式ヒュドリア拡大画像。ケレオス王の妃メタネイラがひざまずき、密儀の象徴である三束の小麦を捧げ、デーメーテールは祝福の手を伸ばしている。アテネ国立考古学博物館

草原で花を摘んでいたペルセポネーは、ゼウスの企みに従ったハーデースによって連れ去られる。娘の叫び声がデーメーテールに届き、母神は松明を掲げて大地をさまよい歩いた。10日目に、ヘカテーがデーメーテールの前に現れ、何者かがペルセポネーを奪い去ったと告げた。デーメーテールはヘカテーを伴ってヘーリオスのもとを訪れ、ペルセポネーをさらったのはゼウスの許しを得たハーデースだということを知る(第1行 - 第90行)。

怒ったデーメーテールはオリュンポスから離れ、老婆に身をやつして地上の街や畑を巡り歩いた。女神は放浪の末にエレウシスにたどり着き、ケレオスの館に迎えられる。館ではケレオスとその妃メタネイラの子供デーモポーンが誕生しており、デーメーテールはデーモポーンの養育を引き受ける。女神は子供を不老不死にしようとして、昼にはアムブロシアーを肌にすり込んで甘い息を吹きかけ、夜には両親に気づかれないように火の中に埋めて育てた。ところが、子供の神にも似た成長ぶりを不審に思ったメタネイラがこれを覗き見して叫び声を上げたため、デーメーテールは腹を立てて女神の姿を現し、アクロポリスの麓に神殿と祭壇を作るように命じた。ケレオスが言われたとおりにすると、デーメーテールは神殿にこもった(第91行 - 第304行)。

穀物の女神が姿を隠したために、大地は実りを失った。ゼウスは女神の怒りを宥めようと、イーリスをはじめとして神々を遣わしたが、デーメーテールは一切聞き入れなかった。やむなくゼウスはヘルメースを冥府に遣わし、ハーデースを説得してペルセポネーを地上に連れ戻すように命じた。こうして、ついに母娘は再会を果たした。しかし、ハーデースはペルセポネーを還す前にザクロの種を食べさせていたため、冥府の食べ物を口にしたことにより、ペルセポネーは1年のうち三分の一は冥界で過ごし、残りの三分の二は地上で暮らすこととなった(第305行 - 第469行)。

大地は実りを取り戻した。デーメーテールはトリプトレモス、ディオクレース、エウモルポス、ケレオスに祭儀の執行を教え、またトリプトレモス、ポリュクセイノス、ディオクレースには秘儀を明かすと、ペルセポネーとともにオリュンポスに赴き、再び神々の列に加わった(第470行 - 第495行)[42]

解釈

トリプトレモス小麦の束を贈るデーメーテール(左)と祝福するペルセポネー(右)。紀元前5世紀のレリーフ、アテネ国立考古学博物館

この物語が示す深い人間的な感情は、文学や宗教の歴史においても巨大な影を投げており、「原体験」あるいは「元型」とも呼ばれる[43]。イギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーは、著書『金枝篇』において、ペルセポネーの神話が冬を地中で越す麦の神話であることを論証している[44][41]コレーの運命は、穀物のサイクルを体現している。コレーが冥界にとどまる一季は穀物の種が播かれて目を出すまで、残りの二季は地上に芽を出して生長する[45]。すなわち、ペルセポネーは冬の4ヶ月を地中で過ごし、春の芽吹きとともに地上に戻ってくることになる。讃歌でもペルセポネーの帰還は春だと明言されており、古代以来、これが通説とされてきた[46]。ところが、ギリシャのとりわけアッティカ地方では農耕事情が異なっており、10月に播種すると数週間後に発芽し、3月に結実するため冬季の畑は成長期となる。したがって、ペルセポネーが冥界にいるのは穀物が地下の貯蔵庫に蓄えられている6月から9月だとする解釈が近年唱えられている[47][40]

ケレーニイは、「デーメーテール讃歌」の穀物は消滅と復活を思わせる回帰を象徴すると解釈している。また讃歌の中で子供を不老不死とするために火の中に埋めるという奇妙な行為も穀物の運命を暗示している。穀物はパンとなるためにいったん火によって死ぬが、死を克服して生命の糧となるというものである[48]。ドイツの神話学者ヴァルター・ブルケルト(1931年 - 2015年)は、デーメーテールがオリュンポスから退去し、再び戻るという点において、デーメーテールもペルセポネーも「どちらも退き、また戻ってくる女神」だとして、役割の二重性を指摘している[49]

また、讃歌の中間部では、例えば、羊の皮を掛けた椅子に座り(196-197行。以下同じ)、飲食をせず(200)、イアムベーの冗談に笑い(202-204)、大麦粉と水とミントを混ぜた飲み物(キュケオン)を飲む(208-209)、など、儀式の所作が集中的に説明されている[40]。このように、「デーメーテール讃歌」には儀式にかかる「縁起」が具体的に織り交ぜられているが、トリプトレモスへの言及はわずかであり、農耕発祥のエピソードやアテナイからエレウシスまで聖具を捧げ持って行進する「聖なる道」など、アテナイに関する事柄には触れていない。これらの事柄はおそらく、エレウシスがアテナイに併合された後、国家の隆盛に伴って自国の偉大さを強調するために生み出されたものだと考えられる。こうした「アテナイ色」の欠如は、この讃歌がエレウシス併合よりも早期に成立したという推定を裏付けるものとなっている[50][37]


注釈

  1. ^ コレーはペルセポネーの別称で、「娘」または「乙女」の意味。
  2. ^ エレウシスの地名の起源として想定されていた英雄名エレウシーノスあるいはエレウシースの神殿[11]
  3. ^ デスポイナ女神はデーメーテールとポセイドーンの娘で、デーメーテールは放浪中に女神を身ごもったと伝えられている[36]
  4. ^ 『挽歌』断片10
  5. ^ 断片719 Dindorf, 348 Didot
  6. ^ en:George E. Mylonas(1898年 - 1988年)はギリシャの考古学者。
  7. ^ イアッコスとはアテナイ及びエレウシスにおけるバッカスの密儀に関わる神の名前であり、その名を冠した騒々しい祭の歌あるいは儀式の叫び声が人格化したものと考えられている。バッコイやイアッコスはいずれもディオニューソスと関係がある呼び名だが、密儀におけるディオニューソスの役割については議論がある[75]
  8. ^ 研究者によっては、子宮や陽根あるいは蛇の模型など農耕文化に特徴的な性的シンボリズムに結びついた遺物であったと信じている者もいるが、いずれも仮説の域を出ない[77]
  9. ^ Dietrichによれば、「力強いポトニア(女主人)が偉大な息子を産んだ」[2]。ポトニアはミュケナイの女神の称号であり[78]、おそらく同様の意味を持つ前ギリシア語を起源に持つ[79]
  10. ^ なお、ホメーロス叙事詩では別の表現となっている。『イーリアス』(XI, 638 - 641)では、プラムニアのワイン、大麦及び粗挽きのヤギのチーズで作られるとし、『オデュッセイアー』(X, 234)では、これに魔女キルケーが蜂蜜を加え、魔法の薬を注いでいる。
  11. ^ デメトリオスはデーメーテールの男性形。
  12. ^ ヨハネによる福音書 XII. 20-26

出典

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