エマニュエル
1.学習・師事歴
フランスに生まれたエマニュエルは、母親から美術を教わった。1880年にパリ音楽院に入学し、ソルフェージュをサヴァールに、和声をデュボワに、音楽史をブルゴー-デュクドレに、作曲をドリーブに師事。しかし、独自の音楽に対する考え方(2.作風。手法を参照)からローマ賞への参加権を得られなかった。そこでエマニュエルは、ギローに個人的な指導を受け、ドビュッシーとも親交をもつようになった。
2.作風・手法
ブルゴーニュで民謡に関心を示した。また、教会堂を頻繁に訪ねたことにより、典礼からも刺激を受けた。エマニュエルの作品では、この2つの要素が重要な位置を占めているといえる。リズムの「自由さ」の追究やフリギア旋法の使用等が受け容れられず、ローマ賞の選考に参加することはできなかった。
過大に自己批判をするエマニュエルは、70曲余りの曲を作曲したものの、その内の30曲ほどしか残していない。
モーリス・エマニュエル
(Maurice Emmanuel から転送)
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ナビゲーションに移動 検索に移動モーリス・エマニュエル | |
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1930年
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基本情報 | |
生誕 | 1862年5月2日 |
出身地 | ![]() |
死没 | 1938年12月14日(76歳没) |
学歴 | パリ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 音楽学者・作曲家 |
モーリス・エマニュエル(Maurice Emmanuel, 1862年5月2日 - 1938年12月14日)はフランスの音楽学者・作曲家。
経歴
本名マリ・フランソワ・モーリス・エマニュエル(Marie François Maurice Emmanuel )。バール=シュル=オーブで生まれ、ボーヌで育った。1869年に家族に連れられディジョンに移り、同地の聖歌隊員になる。パリ音楽院に入学し、作曲をレオ・ドリーブに師事。同窓生のドビュッシーと知り合い、生涯の友人となった。
エマニュエルの関心は、民謡やオリエントの音楽、異国の旋法にあった。エマニュエル作品の旋法の用法はドリーブを不愉快にし、ドリーブはエマニュエルのローマ大賞への参加申請を差し止めた。その後エマニュエルは学問の道を歩み、1895年に古代ギリシャの音楽に関する論文を執筆し、1909年にパリ音楽院作曲科の教授に任命された。門人にオリヴィエ・メシアンがいる。1904年から1907年まで、(シャルル・トゥルヌミールがオルガニストを務めた)聖クロティルド教会の聖歌隊指揮者を務める。
その後も作曲活動を続け、中でもピアノのための《6つのソナチネ》は興味深い作品である。第1番はブルゴーニュの民俗音楽、第2番は鳥の声、第3番のフィナーレはブルゴーニュ民謡を挿入しており、第4番は「インドの様々な旋法によってen divers modes Hindous 」との副題がついている。
主要作品一覧
- 歌劇
- 縛められたプロメテウスProméthée enchaîné (アイスキュロス原作)
- サラミーヌSalamine
- 管弦楽曲
- 交響曲 第1番
- 交響曲 第2番
- 室内楽曲
- チェロ・ソナタ
- 弦楽四重奏曲
- ピアノ曲
- 6つのソナチネ
外部リンク
- Maurice Emmanuel (フランス語)
「Maurice Emmanuel」の例文・使い方・用例・文例
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