DDT発見と効果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 14:36 UTC 版)
「パウル・ヘルマン・ミュラー」の記事における「DDT発見と効果」の解説
ミュラーが殺虫剤の研究に至った理由は、最初に取り組んだ問題が、毛皮や毛糸の保護だったからだ。当時、イガによる毛糸の食害が問題となっており、殺虫剤の方法論を考案する。従来の殺虫剤はガによる経口摂取に頼っていたが、この方法では効率が悪い。そこで、接触性の殺虫剤の可能性を探った。昆虫の体表(付属肢)はキチン質で覆われており、水溶性の物質は浸透しない。そこで疎水性物質に着目した。 最初によい結果が得られたのは合成経路が単純なクロロベンゼンの誘導体である。有機塩素系化合物の可能性を探るうち、DDTを見出す。DDT自体は1874年にドイツで合成されていたが、強力な殺虫効果があることを見出したのはミュラーである。さらに、昆虫をはじめとする節足動物にのみ毒性を発揮し、ヒトや家畜、農作物に対して無害であることが魅力的だった。安定で無臭であり、散布にも適していた。 1942年にはゲザロールという名称で市販される。昆虫を介する伝染病に対する散布薬として利用された。DDTの効果がはっきりしたのが1943年の連合軍によるイタリア南部の中心都市ナポリの占領である。当時、イタリア戦線では発疹チフスが流行しており、これを抑えることができなければ、戦線の行方を左右しかねなかった。そこで、1944年1月、ナポリ市民全員にDDTを散布、シラミが全滅したことにより発疹チフスの流行は収束した。発疹チフスは毎年冬季になると流行していたが、薬物によって流行を抑えたのはこれが最初のことである。当時、イタリア中部をはさみナチス・ドイツと連合軍の戦闘が継続しているさなかであった。 第二次世界大戦後、DDTは農薬としても利用されるようになった。すぐに薬剤に耐性のある昆虫との戦いも始まった。しかし、DDTは安定で環境に残留し、脂溶性であるため食物連鎖によって生物濃縮されることが問題視され、各国で相次いで製造、使用が禁止される。日本においても1970年に使用禁止となった。ただし、DDTの禁止により伝染病、とくにマラリアを媒介するハマダラカに対する強力な武器を失い、マラリアの蔓延に十分に対抗できなくなってしまった。
※この「DDT発見と効果」の解説は、「パウル・ヘルマン・ミュラー」の解説の一部です。
「DDT発見と効果」を含む「パウル・ヘルマン・ミュラー」の記事については、「パウル・ヘルマン・ミュラー」の概要を参照ください。
- DDT発見と効果のページへのリンク