205系の投入以後
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1986年8月に、関西初の205系がスカイブルーの帯を締めて明石電車区に4本配属され、103系を阪和線と武蔵野線に転属させた。11月1日の国鉄最後のダイヤ改正で201系と組んで各駅停車の増発を行った。新快速が外側線(列車線)を走るようになったことから、余裕のできた内側線の増発分として、吹田駅 - 甲子園口駅間の区間運行の運転区間を高槻駅 - 神戸駅間に延長し、この区間の1時間の運行本数が8本に増発された。また、芦屋駅・須磨駅での新快速の通過待ちがなくなったことから所要時間も短縮され、現在に至るダイヤの基礎を形成した。1987年3月31日に国鉄が分割民営化されて翌4月1日からJR各社がスタートしたが、この時期の動きとしては、1987年から1988年にかけて103系の冷房改造を2本実施した程度である。また、1988年3月13日には大阪発高槻行きの終電を0時半に繰り下げたほか、平日の夕方時間帯の運行サイクルを等間隔に変更し、この時間帯に残っていた甲子園口駅折り返し列車を廃止した。また、日曜・祝日のダイヤを「休日ダイヤ」として分離し、適用日には加古川駅発着は日中・夕方に縮小された。 1989年以降、103系の動きが慌しくなってくる。残留していた非冷房車の編成(全編成が1969年投入の最古参車)のうち、3本を4両化して福知山線に投入して同線の輸送力増強を実施、1本を冷房改造のうえ4両編成+3両編成の分割編成に改造して淀川に転出させた。保留車として残存した非冷房の中間車を除くと、この時点で編成単位で残った非冷房車は1編成だけとなり、実質的に冷房化率100%となった。 1991年3月16日のダイヤ改正では、日中時間帯の快速が西明石駅 - 加古川駅間で1時間4本に増発され、各駅停車の加古川駅乗り入れは朝ラッシュ時の2本のみに削減された。同年秋には片町線(学研都市線)の207系量産車投入に伴う103系捻出車が転入、非冷房編成を置き換えて、各駅停車用車両の冷房化率は名実ともに100%となった。103系の淘汰はさらに続き、1994年3月には207系1000番台を基本6両編成+付属2両編成の8両編成14本112両を高槻電車区(現在の吹田工場高槻派出所)に投入、103系を完全に置き換えて、1969年以来25年の長きにわたった(1983年の201系投入後は脇役に転じたが)各駅停車用としての103系の運転は終了した。207系の投入によって、各駅停車初の8両運行が始まったほか、6両運行も復活し、6両の場合には駅の時刻表に丸数字で掲示されていた。同年9月4日のダイヤ改正では、週休2日制の拡大により、各駅停車でも土曜は平日ダイヤから休日ダイヤに移行され、土曜・休日ダイヤとして統合された。
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