1979年-1985年:クロップレディ時代とは? わかりやすく解説

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1979年-1985年:クロップレディ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 03:08 UTC 版)

フェアポート・コンヴェンション」の記事における「1979年-1985年:クロップレディ時代」の解説

1979年までにフォークロック主流市場大きく消えバンドレコード契約結んでおらず、デイヴ・スウォーブリック耳鳴り診断受けていたため、大音量でのエレクトリック・ギグはますます困難になっていたこともあってフェアポートは解散決定したバンドお別れツアー行い最後野外コンサート8月4日デイヴとクリスティン・ペッグが住んでいたオックスフォードシャークロップレディで行った。この機会最後は、バンド再会のために集まることを発表することによって緩和された。 このツアーとコンサートライブ録音リリースしようとするレコード会社がなかったため、ペッグ夫妻はウッドワーム・レコードを設立し将来的にはこのレコード会社バンド主要な販売先となったメンバー時折ギグ、特にヨーロッパ大陸フェスティバル参加し続け1年後、彼らは後に毎年恒例のクロップレディ・フェスティバルとなったクロップレディで再会コンサート行ったその後数年間で、それは急速に成長しバンド維持するための主要なメカニズムとして浮上した1981年8月バンド毎年恒例再結成コンサートをクロップレディではなくブロートン城で開催した 。 このコンサート録音され1982年アルバムMoat on the Ledge』としてリリースされた。ペッグ夫妻はクロップレディのコンサート録音し、「公式ブートレッグ」としてリリースし続けた。これらに加えて、パットニーのハーフ・ムーン(Half Moon)や、グロスター・レジャー・センター(Gloucester Leisure Centre)などのマイナーな場所でのニューイヤー・ギグが行われた。1983年雑誌『フェアポートファナティックス(後のダーティリネン)』が創刊され、熱心なファン層引き続き存在することを証明している。 残りメンバーバンドの外でそれぞれの生活やキャリア追求していた。 ニコルペッグ、マタックスは1970年代リチャードとリンダ・トンプソンとレコーディングとともにツアー行ったことがあり、この時期にもまたレコーディング行い1982年アルバムShoot Out the Lights』とツアー参加して最高潮達した。 ブルース・ローランズは音楽ビジネス諦めてデンマーク移住しその結果、デイヴ・マタークスがフェアポートのギグドラマーとして復帰した。デイヴ・ペッグはジェスロ・タル加入した数人のフェアポート・メンバーの中で最初の一人であり、彼は安定した収入得ていた。 サイモン・ニコルはデイヴ・スウォーブリックとのアコースティック・デュオとして高く評価されていたが、スウォーブリックのスコットランドへの突然の移住決定によりこのパートナーシップ困難になり、1984年からは彼の新しプロジェクトであるウィッパーズナッパー(Whippersnapper)に専念するようになった1985年に、ペッグニコル、マタックスは、彼ら全員空き時間ペッグ所有する利用可能スタジオがあることに気がついた。彼らは1978年中断していたカタログ新しい曲を追加する必要がある考えた。スウォーブリックが不在だったため、伝統的な曲の選択過去アルバムよりも難しく代わりフィドル奏者ボーカル必要だったペッグニコルがインストゥルメンタル・メドレーのアレンジ担当しバンドアルビオン・バンドメンバーであったジャズフォークヴァイオリニストリック・サンダースシンガー・ソングライターのキャシー・ルサーフを起用した。彼らはまた、元メンバーリチャード・トンプソン助け借りたトンプソンとルサーフは曲を提供しレコーディング参加したまた、このアルバム重要な役割果たしたのはラルフ・マクテルで、彼はニコルとマタックとそれぞれ1曲ずつ曲を提供し共同作曲した以前の「The Hiring Fair」は後のフェアポート(Fairport)のステージ定番となった結果として得られアルバム『Gladys' Leap』(1985年)は一般的に音楽界全国紙好評博したが、1985年のクロップレディ・フェスティバルで新曲演奏拒否したスウォーブリックとの間に緊張関係が生まれたそれにもかかわらず、スウォーブリックなしでバンド改革する決定は、残りの3人のメンバーによって行われたリック・サンダースギタリスト作曲家編曲家、マルチ・インストゥルメンタル奏者のマーティン・オールコックと共に参加することになったニコルは、バリトンの声を伸ばしながら、ボーカル主な役割引き継いだ。このラインナップ11年間続くことになり、これまでのバンドの歴史の中で最も長い期間メンバー安定していた。

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