1975年-76年:戦闘から友好関係構築へとは? わかりやすく解説

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1975年-76年:戦闘から友好関係構築へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:02 UTC 版)

カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「1975年-76年:戦闘から友好関係構築へ」の解説

1975年4月ベトナム戦争終結すると、直ぐにベトナムカンボジアの間で新たな紛争起こった以前北ベトナムクメール・ルージュお互い共存共栄の関係で戦っていた。しかし、クメール・ルージュは、ベトナム共産党ベトナム指導者としてインドシナ連邦作る夢を決し諦めない考えており、大きな疑いの目で北ベトナムを見続けていた。このため民主カンプチア1975年プノンペン陥落させると直ぐ、カンボジア領土からのあらゆるベトナム軍の排除決定した両国間の最初大規模な戦闘1975年5月1日生起しカンボジア軍カンボジア領の一部主張するベトナムフーコック島侵攻した9日後の5月10日カンボジア軍はトーチャウを陥落させて侵攻続け、そこでベトナム市民500人を処刑したベトナム軍は直ち反撃開始しフーコック島とトーチャウからカンボジア軍排除、さらにカンボジアのポウロワイ島に侵攻しカンボジア行動応じたポル・ポトハノイ訪れた同年6月ベトナムカンボジア友好条約署名し国境問題に関する討議開始することを提案した。しかし、この討議決し実現することはなく、カンボジアベトナム2つ提案拒否した主張した8月ベトナムはポウロワイ島をカンボジア返還し正式にカンボジアに島の領有権があることを認めた。 この事件を受け、両国一連の祝賀メッセージ相互訪問外交関係修復しようとした。1976年4月17日ベトナム指導部は、キュー・サムファンヌオン・チア、そしてポル・ポトそれぞれ国家主席人民代議員議長カンボジア首相に選出された」ことを祝福するメッセージ送った。更にベトナム1976年2月シェムリアップを「アメリカ爆撃した」と主張して非難し先立って弾劾していたカンボジア政府の見解擁護した。これらに対し1976年6月カンボジア指導部は、1975年4月サイゴン陥落アメリカ支援する政権崩壊してからのち、南ベトナム統治していた南ベトナム共和国に、建国7周年を祝うメッセージ送った1976年7月ベトナム戦争終戦後再統一国家としてベトナム社会主義共和国建国されると、プノンペンラジオは「民主カンプチア人民と、ベトナム社会主義共和国人民戦闘的連帯友好は、絶え活気満ちて不屈なものへと発展している」と宣言するコメント放送した。しかし同月ポル・ポト首相は公の席で両国の関係に「障害と困難」があるとベトナムメディア代表団語りベトナムカンボジア緊張を増すことになった。にもかかわらず1976年9月21日ハノイホーチミン市プノンペンを結ぶ最初航空路開設された。1976年12月カンボジア革命組織ベトナム共産党第4回党大会開催に関する挨拶状送った

※この「1975年-76年:戦闘から友好関係構築へ」の解説は、「カンボジア・ベトナム戦争」の解説の一部です。
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