1975年-76年:戦闘から友好関係構築へ
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「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「1975年-76年:戦闘から友好関係構築へ」の解説
1975年4月にベトナム戦争が終結すると、直ぐにベトナムとカンボジアの間で新たな紛争が起こった。以前の北ベトナムとクメール・ルージュはお互い共存共栄の関係で戦っていた。しかし、クメール・ルージュは、ベトナム共産党はベトナムを指導者としてインドシナ連邦を作る夢を決して諦めないと考えており、大きな疑いの目で北ベトナムを見続けていた。このため、民主カンプチアは1975年にプノンペンを陥落させると直ぐ、カンボジア領土からのあらゆるベトナム軍の排除を決定した。両国間の最初の大規模な戦闘は1975年5月1日に生起し、カンボジア軍はカンボジア領の一部と主張するベトナムのフーコック島に侵攻した。 9日後の5月10日、カンボジア軍はトーチャウを陥落させて侵攻を続け、そこでベトナム市民500人を処刑した。ベトナム軍は直ちに反撃を開始し、フーコック島とトーチャウからカンボジア軍を排除、さらにカンボジアのポウロワイ島に侵攻してカンボジアの行動に応じた。ポル・ポトはハノイを訪れた同年6月、ベトナムとカンボジアが友好条約に署名し国境問題に関する討議を開始することを提案した。しかし、この討議は決して実現することはなく、カンボジアはベトナムが2つの提案を拒否したと主張した。8月、ベトナムはポウロワイ島をカンボジアに返還し、正式にカンボジアに島の領有権があることを認めた。 この事件を受け、両国は一連の祝賀メッセージと相互訪問で外交関係を修復しようとした。1976年4月17日、ベトナム指導部は、キュー・サムファンやヌオン・チア、そしてポル・ポトがそれぞれ国家主席、人民代議員議長、カンボジア首相に「選出された」ことを祝福するメッセージを送った。更にベトナムは1976年2月にシェムリアップを「アメリカが爆撃した」と主張して非難し、先立って弾劾していたカンボジア政府の見解を擁護した。これらに対し、1976年6月にカンボジア指導部は、1975年4月のサイゴン陥落でアメリカが支援する政権が崩壊してからのち、南ベトナムを統治していた南ベトナム共和国に、建国7周年を祝うメッセージを送った。 1976年7月、ベトナム戦争終戦後の再統一国家としてベトナム社会主義共和国が建国されると、プノンペンラジオは「民主カンプチア人民と、ベトナム社会主義共和国人民の戦闘的連帯と友好は、絶えず活気に満ちて不屈なものへと発展している」と宣言するコメントを放送した。しかし同月、ポル・ポト首相は公の席で両国の関係に「障害と困難」があるとベトナムのメディア代表団に語り、ベトナムとカンボジアの緊張を増すことになった。にもかかわらず1976年9月21日、ハノイやホーチミン市とプノンペンを結ぶ最初の航空路が開設された。1976年12月、カンボジア革命組織はベトナム共産党に第4回党大会開催に関する挨拶状を送った。
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