1967年5月~炉型決定へ
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「福島第一原子力発電所2号機の建設」の記事における「1967年5月~炉型決定へ」の解説
1967年5月には東京電力の方針として下記が報じられている。 輸入する場合には出力を70万kWまでスケールアップする 国産の場合は出力は1号機と同じ40万kWに抑え、東芝に発注する 国産化案が40万kWに留められているのは、東京電力としては、上記のメーカー回答と異なり、国内メーカーの実力は実際に下請として受注した炉と同レベルと見なしていたからである。田中直治郎は2号機選定について「問題は輸入か国産かの論議よりも、原子炉の安全運転を確保するための技術面の信頼度で、この点を考慮して決定する」と国産化推進の動きを牽制する構えを見せていた。 この頃、通産省は上述の中電協10ヶ年計画に対応した修正案を1967年5月に示していた。この修正案では基本的に米国型軽水炉の採用が続くことを想定し、GE炉を51万5000kW、76万2000kWの2種、WH炉を48-53万kW、70-85万kWのそれぞれ2段階としたもので、各社の計画出力も軒並み拡大された。この修正案で東京電力の2機目の出力も76万2000kWへの増加が強く要請された。 また、『原子力通信』(1967年6月5日)によると、東京電力は2号機を1号機と同型として国内メーカーに発注する方案について、当時は原子炉技術の進歩(大容量化による発電単価のコストダウン)が急速で、経済的メリットを損ない、かつ3号機において再度海外から新型炉を導入せざるを得なくなるとして放棄したという。このような情勢の中、GEは1967年型をラインナップしていたのである。 上記のような情勢から、当時の社長、木川田一隆も慎重に最後の結論を下す考えと報じられていた。東京電力は5月末、GEからの輸入とする決定方針を通産省に伝達、同省は5月29日に再度メーカー3社首脳を招集し東京電力の意向を伝えると共に、各社の技術力について事情を聴取した。しかし、4月に「70万kWまでは国産化出来る」旨の回答を行った各社は、この時ははっきりした回答を出すことが無く、日刊工業新聞は「責任ある回答が得られなかった」と報じている。1967年5月31日、2号機のLetter of Comittmentが出された。 また東京電力は、日立、東芝、三菱の各社に対し、2号機をBWR-4(当時は1967年型と呼称)のような78万kWタイプとした場合国産が可能かを打診したが、メーカー側は未経験の大容量プラントのため、性能保証、納期に自信が持てず「GEに決定しても止む追えない」との態度を示したとされている。 なお、2号機として選定されたのは、発電端出力78万4000kW(784MW)のタイプである。電気出力については運転開始時点における系統容量も考慮して決められた。『電気計算』1967年8月号によると、GEから標準タイプ以外を契約すると、発注から組入まで相当の期間がかかると予想されていたという。
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