1965年から1989年まで
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「労働党 (オランダ)」の記事における「1965年から1989年まで」の解説
1965年に中道右派連立政権内で軋みが生じると、労働党も参加する新たな連立政権が誕生。しかしこの連立政権も財政問題を巡り内部抗争が絶えず短命に終わった。 一方、労働党内では若手議員(いわゆる新左翼)を中心に、女性解放や環境保全、第三世界への開発援助などの問題にも取り組むべきとして党改革を主張する動きが表面化し、一時党内は混乱状態に陥った。また、この新左翼の運動に呼応して、ドレースの実子であるウィレム・ドレース・ジュニア(英語版)が中道政党の党員らを巻き込み新右翼政党を結成。1970年、労働党内の内部抗争に嫌気がさした一部党員が離党し民主社会70(英語版) (DS70) を結党した。 新左翼が新たな勢力として興隆する中、労働党は新左翼への切り崩し戦略を図るべく、議会内で多数を占める進歩派を基盤とする政権造りに邁進する。労働党は左派リベラル政党の民主66やキリスト教系の急進党(英語版) (PPR) とともに協力体制を築いた(進歩協定)。1971年・1972年の総選挙に際して3党は、急進的な共通マニフェストを掲げ選挙後に連立内閣を組織する協定を結んだが、いずれの選挙でも敗北した。一方で、労働党の離党者から成る民主社会70は第1次ビースフーヴェル内閣(英語版)の与党となった。 また1972年の選挙では、労働党もカトリック人民党も過半数を取ることが出来なかったため、両党らは共闘し労働党党首のヨープ・デン・アイル(英語版)を首班とする連立政権を発足させる(連立与党は労働党、カトリック人民党、反革命党、キリスト教歴史同盟、民主社会70)。この連立政権は社会や経済の抜本的な改革に乗り出すが、不況とイデオロギー上の問題を抱え頓挫。特に、首相とカトリック人民党との折り合いが悪く、1977年の選挙直前に連立政権が瓦解してしまった。選挙後はキリスト教民主主義政党のキリスト教民主アピール (CDA) と自由民主国民党との連立政権が誕生し労働党は野党となった。 1981年の選挙では、キリスト教民主アピールと自由民主国民党が共に大敗し、議会第1党のキリスト教民主アピールは労働党やリベラル左派政党の民主66 (D66) との共闘を選択するものの、ドリース・ファン・アフト(英語版)率いる新政権はアイルとの諍いが絶えず数ヶ月後に崩壊。1982年と1986年の各選挙ではキリスト教民主アピールと自由民主国民党がいずれも勝利し労働党は野党に転落した。この間党改革を進め、1986年にはアイルが政治家を引退し代わってウィム・コックが党首となった。
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