1945年と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 17:23 UTC 版)
「ジャーヴィス (J級駆逐艦)」の記事における「1945年と戦後」の解説
改装完了後の1945年5月8日にゴドフリー・ランサム(Godfrey Ransome)中佐の下で再就役した後は、地中海で警備任務に就いた。6月3日にイギリスを出発して地中海へ向かう途中にポルトガルのリスボンに寄港し、ドイツの降伏(英語版)を受けて自沈後にポルトガル海軍のヴォウガ級駆逐艦ダン(英語版)によって救助されたUボートの乗員47名の引き渡しを受け、ジブラルタルへ移送した。その後マルタ島へ到着して間もなく艦長がデヴィッド・ヒュー・メイトランド-マクギル-クリクトン(David Hugh Maitland-Makgill-Crichton)中佐に交代した。 9月15日にロードス島にいたジャベリンで艦長らに対し乗員の大規模な反抗事件が発生したため、ジャーヴィスは軍法会議が行われるマルタ島へジャベリンを護送している。 ジャーヴィスは地中海沿岸の巡航や演習を行ったが、11月12日には第14駆逐艦戦隊の旗艦がCh級駆逐艦チェッカーズ(英語版)に変更されたため、ジャーヴィスは旗艦を退きジャベリンと2隻で第14駆逐艦戦隊第28駆逐隊(28th Division)を編成した。11月19日、ジャーヴィスは戦争中の残存機雷に触れて放棄されていたリバティ船ジェシー・ビリングスリー(Jesse Billingsley)に遭遇した。ジャーヴィスから派遣された人員が確認したところ水密は保たれていることが判明したため、ジェシー・ビリングスリーはトリエステから来た曳船によって曳航されていった。 1946年1月25日、ジャーヴィスは僚艦チェッカーズ、チャプレト(英語版)、シェヴロン(英語版)と共にエジプト王国海軍に譲渡される高速魚雷艇(MTB)を曳航してマルタ島からアレクサンドリアへ向かった。戦隊司令らの反対にもかかわらず激しい嵐の中で予定通り曳航が命じられた結果、間もなく波浪のため曳航不能になり、要員を退去の上で高速魚雷艇は全てジャーヴィスの砲撃により海没処分された。曳航失敗後に僚艦はマルタ島へ帰還したが、ジャーヴィスだけは嵐でガヴドス島に座礁したイタリアの客船グラディスカ(Gradisca)と、グラディスカの離礁作業中に自らも座礁した曳船キャプティヴ(Captive)の救援活動に参加している。 その後は主に地中海東岸の警備活動に従事し、ヨーロッパからパレスチナへ向かおうとするユダヤ人が乗った移民船の取締りなどを行った。 ジャーヴィスは1946年5月19日まで活動した後にイギリス本国へ向けてハイファを出港したが、その際には僚艦チェッカーズ、チャプレト、シェヴロンの付き添いを受け、さらに地中海艦隊所属の全駆逐艦からの喝采を受けた。チャタムに到着した6月4日にジャーヴィスは予備役のカテゴリー「B」に編入され、以降はグリーノックで係留練習艦として使用された。ジャーヴィスは1947年10月に廃棄リストに載り、翌年ストリヴェン湖(英語版)で戦争を生き残った他の姉妹艦(ジャベリン、ケルヴィン、キンバリー)と共に爆発物の実験に用いられた。 ジャーヴィスは1949年1月にブリティッシュ・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション(英語版)(BISCO)にスクラップとして売却され、その後同年9月にアーノット・ヤング社の手でトルーン(英語版)に曳航後、スコットランドのポート・バナタイン(英語版)にて解体された。
※この「1945年と戦後」の解説は、「ジャーヴィス (J級駆逐艦)」の解説の一部です。
「1945年と戦後」を含む「ジャーヴィス (J級駆逐艦)」の記事については、「ジャーヴィス (J級駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 1945年と戦後のページへのリンク