1930年代前半: 《スカイラーク》と《レンズマン》の狭間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 13:44 UTC 版)
「E・E・スミス」の記事における「1930年代前半: 《スカイラーク》と《レンズマン》の狭間」の解説
その後スミスは『火星航路SOS』(Spacehounds of IPC) から始まる新シリーズの執筆を開始し、1930年秋に完成させた。この小説を書くにあたってスミスは『宇宙のスカイラーク』で読者に指摘された科学的不正確さを排除するのに苦労した。『銀河パトロール隊』執筆後の1938年時点でもスミスはこの作品が一番できがよいと思っていた。後に彼は「スカイラークのような疑似科学とは違い、この作品は本当の科学だ」と述べている。晩年になってもスミスはこの作品が唯一の真のSFだったと述べている。この作品はアメージング誌1931年9月号に掲載されたが、そのとき編集長スローンが勝手に修正を加えている。読者のファンレターの多くは舞台が太陽系内に限られていることに不平を漏らしており、スローンは読者の味方をした。そこでアスタウンディング誌の編集者ハリー・ベイツが1語2セントの原稿料で原稿を依頼してきたとき、スミスはそちらの話に乗った。したがって、『火星航路SOS』の続編は書かれることなく終わった。 そして書かれたのが『三惑星連合』であり、科学考証にはこだわらず想像の赴くままに書かれていた。実際、登場人物が心理学的あるいは科学的な信じ難さを作中で指摘しており、ある意味で自己風刺的ですらある。それ以外では登場人物は明らかな信じ難いことにも全く沈黙している。アスタウンディング誌1933年1月号には『三惑星連合』が3月号から連載され、表紙もそのイラストになるという予告が載ったが、アスタウンディング誌の財政問題からこの作品は掲載できなかった。そこでスミスは原稿をワンダー・ストーリーズ誌に送ったが、編集長チャールズ・D・ホーニッグはそれを受け取らなかった。彼は後にファンジンでその原稿をボツにしたことを自慢している。最終的にスミスはアメージング誌に原稿を送り、1934年1月号から掲載された。ただし原稿料は1語半セントだった。間もなくアスタウンディング誌が復活し、新編集長F・オーリン・トレメインが1語1セントの原稿料を提示したが、既にアメージング誌が買い取った後だった。そこでトレメインは《スカイラーク》シリーズの3作目を依頼した。 1933年から1934年にかけての冬、『ヴァレロンのスカイラーク』を執筆したが、スミスは話の収拾がつかなくなってきたと感じ、初稿をトレメインに送る際に助言を求める乱雑な注記を添えていた。トレメインは初稿に850ドルを支払い、1ページ全部を論説にあて、4分の3ページを広告として1934年6月号で掲載を発表した。この小説は1934年8月号から1935年2月号まで連載された。アスタウンディング誌は掲載当初から1万部に上がり、競合するアメージング・ストーリーズ誌やワンダー・ストーリーズ誌は財政危機に陥り、その年は休刊している。
※この「1930年代前半: 《スカイラーク》と《レンズマン》の狭間」の解説は、「E・E・スミス」の解説の一部です。
「1930年代前半: 《スカイラーク》と《レンズマン》の狭間」を含む「E・E・スミス」の記事については、「E・E・スミス」の概要を参照ください。
- 1930年代前半: 《スカイラーク》と《レンズマン》の狭間のページへのリンク