1930年代以降の「トロツキスト」
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「ニセ「左翼」暴力集団」の記事における「1930年代以降の「トロツキスト」」の解説
1934年に発生した、ソ連共産党政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺事件を「トロツキー一派の仕業」とでっち上げ、1936年に大粛清を開始したヨシフ・スターリンは、敵対者、あるいは潜在的な反対派とみなした人物に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。世界各国の共産党は、自ら以外の共産主義組織および共産主義者、あるいは指導部の指導に従わない党員、党を離れたものに対する蔑称としてスターリンの定義を踏襲して「トロツキスト」を多用してきた。その場合は、「階級敵の側に転じた裏切り者」「左翼を装った挑発者」「スパイ反革命(集団)」を意味していた。 コミンフォルムは、ソ連政府およびスターリンの指導を拒否したユーゴスラビアのチトーに対して、大々的な「チトー=トロツキスト・キャンペーン」を行った。日本では、同時期の1950年に日本共産党内部で分裂した「所感派」と「国際派」が互いを「トロツキスト」と罵り合っていた。60年安保闘争時は、決してトロツキーの思想の影響下にあったわけではなかった共産主義者同盟および全学連を「極左冒険主義のトロツキスト集団」と非難していた。また、「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スターリン主義」を標榜する革マル派、中核派、さらにトロツキズムのみならずレーニン主義すら否定する解放派まで、一括りに「トロツキスト」と規定していた。「トロツキスト」は、口語では(新左翼党派構成員を指して)「トロ」と略されて、下部党員や民主青年同盟員の間で一般的に使用されていた。
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