黒人映像の忌避
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 18:07 UTC 版)
「アメリカ合衆国のボクシング中継」の記事における「黒人映像の忌避」の解説
初期の最も重要な映像は1910年7月4日撮影の『ジェフリーズ対ジョンソン ボクシング世界タイトルマッチ』(Jeffries-Johnson World's Championship Boxing Contest) で、ジェフリーズとジャック・ジョンソンのヘビー級戦を映した120分にわたる白黒の無声映画である。数年前にネバダ州でジョー・ガンス対バトリング・ネルソンという異人種間の対戦をプロモートしたテックス・リカードが10万1000ドルで興行権を落札していた。1909年10月のスタンリー・ケッチェルとの対戦を映した『ジョンソン対ケッチェル戦』(The Johnson-Ketchel Fight) はMPPC(モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー)が配給しており、ビタグラフ社社長でMPPCメンバーのウィリアム・ロックとプロモーターのシド・ヘスターがリカードに協力した。ビタグラフ社の創設に携わったジェームズ・スチュアート・ブラックトンがこの試合を撮影するためにJ&J社を立ち上げ、ビタグラフ社、エッサネイ社、セリグ社から総勢12人のカメラマンがリングを見下ろすブースに陣取った。試合は当初サンフランシスコでの開催が予定されていたが、カリフォルニア州知事は世論に屈して試合を禁止した。この時点でリカードはすでにこの試合のためのアリーナを建設し、30万ドルのチケットを売り終えており、ネバダ州知事の励ましを受けて同州リノに会場を移した。ジェフリーズとジョンソンはそれぞれの練習場でも撮影され、ロンドンなどから500人程の報道関係者が集まった。ジョンソンが15回に3度のダウンを奪って試合を終えると全米で人種暴動が勃発し、シカゴでは14人、サンフランシスコでは24人が死亡。ロサンゼルス、フィラデルフィア、ニューオリンズなどの都市でも集団が暴徒化し、その日のうちに試合映像の公開を禁止する動きが起きた。黒人のジョンソンが勝利する映像が今やどこでも鑑賞可能になったという事実が米国の白人社会に衝撃を与え、全米の官憲が一様に黒人優勢を伝える映画を危惧した。印刷物は7月10日までには準備され、映像はニューヨーク、フィラデルフィア、セントルイスなどの都市で無事に上映された。しかし上映が広まるにつれ世論は次第にジョンソンに敵対するようになり、次のジム・フリン戦の映像は利益を生まなかった。ニュース映画は20世紀初頭の貴重な情報源だったが、連邦議会は1912年に試合映像の州間輸送を禁じ、ジョンソンが衰える1940年まで禁止が解かれることはなかった。
※この「黒人映像の忌避」の解説は、「アメリカ合衆国のボクシング中継」の解説の一部です。
「黒人映像の忌避」を含む「アメリカ合衆国のボクシング中継」の記事については、「アメリカ合衆国のボクシング中継」の概要を参照ください。
- 黒人映像の忌避のページへのリンク