黒人教会員の聖職者を禁じることになった事情
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「ブリガム・ヤング」の記事における「黒人教会員の聖職者を禁じることになった事情」の解説
ヤングは黒人教会員から聖職を剥奪し叙任される権利を無効にすることを推進したと一般に考えられている。ジョセフ・スミスの時代までは黒人教会員の扱いは曖昧であった。 1847年にモルモン教徒がイリノイ州からユタに逃げてきたとき、ヤングは著名な黒人教会員ウォーカー・ルイスの息子が人種間結婚をしたことを知らせる手紙を受け取った。この手紙は、人種間結婚が許容されることかを知りたいと思ったモルモン教徒の長老ウィリアム・アイバース・アップルビーによって書かれていた。アップルビーはこの手紙をネブラスカの冬季宿営地にいるヤングに送ったが、ヤングはこのときユタにいたので、冬季宿営地に戻ってきた1847年12月1日まで受け取れなかった。全く偶然にアップルビー自身も12月2日に冬季宿営地に到着した。ヤングはアップルビーの手紙を読み、アップルビーにはヤング自身とそのときネブラスカにいた8人の使徒の所に出頭させた。1863年、ヤングは、「アフリカの人種に関して神の法を貴方に教えることになるのだろうか?選ばれた種に属する白人がカインの種を持つ者と血が混じるならば、神の法の下での罰は即刻の死である。これからずっとそうなるだろう」と言ったと報告した。 ヤングは1848年にユタに入植した後で、アフリカ系黒人が全て聖職を持つことを禁じる聖職禁制を宣言した。これに関連して、アフリカ人子孫のモルモン教徒は叙任や婚姻などモルモン神殿の儀式に参加できなくなった。これら人種による規制は、1978年にスペンサー・W・キンボール大管長が無効にするまで有効だった。
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