黒人解放運動の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:53 UTC 版)
「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」の記事における「黒人解放運動の分裂」の解説
「血の日曜日事件 (1965年)」および「Poor People's Campaign」も参照 ワシントンD.C.への20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。 1965年3月7日には、アラバマ州のセルマから州都モンゴメリーに向かっていたデモ隊に対し、州軍と地元保安官が、催涙ガスや警棒を使って攻撃をし、かれらをセルマに追い返した。「血の日曜日事件」である。これを受けたキングは再びデモ隊を率いてモンゴメリーに向かうことを計画し、3月21日に行進をスタートさせ、4日後の3月25日にモンゴメリーにデモ隊は無事到着した。 黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」運動を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れ、ブラックパンサー党が結成されたり、1967年夏にニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。それに呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。 キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。 公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなくゴールだとは認識していなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」とゴールだと位置づけた。 深く根付いた差別意識は依然として教育や雇用の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。 差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の失業問題は、白人に比べ深刻である。 ベトナム戦争により黒人は多数徴兵され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で民主主義の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。 大都市ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。
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