黒人開拓者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/12 23:18 UTC 版)
「カス郡 (ミシガン州)」の記事における「黒人開拓者」の解説
1840年以降、郡内の白人が人種差別法を忌避していたこと、これを強く支持するクエーカー教徒が多かったこと、さらに安い土地ねに惹き付けられ、黒人の人口が急増した。自由黒人や逃亡奴隷にとってカス郡は安息の地だった。その幸運が南部の奴隷所有者の注目を浴びることになった。1847年と1849年、北ケンタッキーのバーボン郡とブーン郡の農園所有者が、逃亡奴隷を捕まえるためにカス郡への襲撃を行なった。彼等は、その行動に抵抗するために「棍棒、大鎌など農具で武装した怒れる農夫集団に取り囲まれる」ことになった。 この襲撃は目的を果たさなかったが、1850年の逃亡奴隷法を成立させることになる南部の要求を強めた。それが南北戦争に突き進む原因の1つとなった。 カス郡はその住民が早期に反奴隷制度を強く打ち出していたことで有名になった。1829年にペンシルベニア州から来たクエーカー教徒がペン郡区に開拓地を作り、そこが地下鉄道活動の著名な「駅」になった。地下鉄道の1ルートは、ナイルズからカソポリス、スクールクラフト、クライマックス、バトルクリークを通り、そこからは昔の準州道路に沿っていた。
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