黒人部隊の大量徴兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:00 UTC 版)
「エイブラハム・リンカーン」の記事における「黒人部隊の大量徴兵」の解説
「第54マサチューセッツ歩兵連隊(英語版)」および「サウスカロライナ第1義勇兵部隊(英語版)」も参照 奴隷解放宣言後、元の奴隷を軍隊で用いることは政府の公式方針となった。当初リンカーンはこの計画を全面的に行うことを躊躇したが、1863年春までに「黒人部隊の大量徴兵」を始めさせることになった。テネシー州の軍政府長官アンドリュー・ジョンソンに宛てた手紙で、黒人部隊を立ち上げることを奨励して、「5万人の武装し訓練された黒人兵がミシシッピ川の岸を進むさまを見れば即座に反乱を終わらせられるだろう」と記していた。リンカーンの指示が出されると、ニューヨーク市では徴兵に関するイングランド系とアイルランド系の差別に反対するニューヨーク徴兵暴動で多数の黒人がリンチ殺人されたものの、1863年暮れまでにロレンゾ・トーマス(英語版)将軍がミシシッピ川流域から20個連隊の黒人部隊を立ち上げた。フレデリック・ダグラスはリンカーンについて、「かれの軍隊では私の卑しい出自、あるいは私の嫌われる肌の色について思い出させられることはなかった」と語った。 リンカーンは、戦争の発生だけが大統領に合衆国内にすでに存在する奴隷を解放する憲法上の力を与えたと主張して、戦時立法として宣言に署名した。「反乱州」における奴隷制度を廃止した宣言は公式な戦争の終結につながり、それは奴隷制の廃止と連邦での市民権の確立に関するアメリカ合衆国憲法修正条項第13条および第14条制定の推進力となった。政治上奴隷解放宣言は北部に対して大きな支援となった。南部の綿花のおもな購入先であり、北軍の海上封鎖を打破しうる海軍力をもっていたのはイギリスだったが、結果的に奴隷解放宣言はイギリスを牽制する役割を果たした。当時の首相パーマストンは数か月前とは異なり、ヨーロッパ諸国が介入する機会は失われたと思うと説明した。イギリス世論は奴隷廃止を支持した。イギリスが南部を支持することはなかった。
※この「黒人部隊の大量徴兵」の解説は、「エイブラハム・リンカーン」の解説の一部です。
「黒人部隊の大量徴兵」を含む「エイブラハム・リンカーン」の記事については、「エイブラハム・リンカーン」の概要を参照ください。
- 黒人部隊の大量徴兵のページへのリンク