かしま‐の‐ことぶれ【鹿島の事触れ】
願人坊主
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願人坊主(がんにんぼうず)は、江戸時代(17世紀 - 19世紀)に存在した日本の大道芸人で、神仏に対する参詣・祈願あるいは修行・水垢離を客の代理として行うことに始まり、江戸市中を徘徊して軽口、謎かけ、住吉踊り、あほだら経など、さまざまな芸による門付、あるいは大道芸を行う者の総称である。乞胸と同様に芸能中心の賤民である。「道楽僧」と書くこともあった[1]。住吉踊り、かっぽれをはじめ、念仏踊り系統の多くは願人坊主によって諸国に流布された[2]。
- ^ 郵便報知新聞 明治6年8月30日付(126)
- ^ a b c 願人坊主『大百科事典. 第6巻』平凡社、1935
- ^ 金毘羅行人 世界大百科事典
- ^ ジェラルド・グローマー『幕末のはやり唄』によれば、元はすぐ隣町の馬喰町に住んでおり、読売・クドキ本の版元で、同時に「石見銀山鼠取り薬」や飴売り屋の元締めでもあった、馬喰町三丁目の吉田屋小吉と関係が深かった事が推定されている。
- ^ 明治14年春の大火のため、末から翌年春にかけ橋本町地区はスラムクリアランスが実行され、住人は他地域に移住せざるをえなくなった。 出典:藤森照信『明治の東京計画』
- ^ 江戸落語家の一部は「門付」とは流れが違うという誇りを、今でも時折表に出すものがいる。実際には多くの芸人(萬歳師、角兵衛獅子、ちょんがれなど多数(寄席文字の橘流創始者橘右近もその一人である))が、芸人坊主の流れを汲み、芸人町に住んでいた。咄家の大家も多く近辺に住んでいたのである。出典:小沢昭一『私のための芸能野史』p.198-234他。
- ^ 現在の着衣に関する習俗感覚からすると信じがたい事であるが、実際には明治の頭に「裸で町を歩く事を禁止」する令(違式詿違条例)が出ており、それまでは日常的に見られる光景であった。詳細は中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心』を参照のこと
- ^ 多くの浪曲研究書においては、ちょんがれ・ちょぼくれとあほだら経はほぼ同一として扱われる。
- ^ 豊年斎梅坊主の残された音源タイトルなどでもその辺りは明らかである
- ^ 加藤秀俊『明治大正昭和世相史』p.59
- ^ ジェラルド・グローマー『幕末のはやり唄』p.54-59他
- ^ 「東京の貧民」明治29年10月11日 時事新報など:出典『明治ニュース事典』5巻
- ^ 町人の刀好みー不似合いなこと好んですることのたとえ。身にそぐわないということ。刀は武士が持つもので、それを町人が欲しいと思うのは、文不相応であるの意 新明解故事ことわざ辞典p.427
- ^ 『昭和の肖像<芸>』p.212。初出は巌修山本覚寺『本覚』1988(12)
- ^ その論をまとめた「日本の放浪芸」の業績が認められ、放送大学客員教授に就任したことが一例である
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