鹿児島市鴨池時代の鹿児島空港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 13:40 UTC 版)
「鹿児島空港」の記事における「鹿児島市鴨池時代の鹿児島空港」の解説
鴨池にあった当時の空港位置。赤い四角で囲まれた部分はターミナルビル周辺。この地図で滑走路は示されていない。 1957年(昭和32年)7月1日 - 旧・鹿児島空港(通称・鴨池空港。現在の鹿児島市鴨池新町付近)が開港。鹿児島タワーが3階建ての管制塔を使って、管制官4名体勢で管制業務を開始。滑走路 (滑走路方位18-36、1200m x 30m) とその中央部にエプロンを結ぶ短い誘導路が1本あり、東側は護岸や防波堤、西側は境界柵で囲まれていた。開港開港当初から定期便として、極東航空が鹿児島-宮崎-大阪線 (1往復/日) を開設しDC-3が就航し、鹿児島-福岡 (1往復/日) にはデ・ハビランド・ダブが就航した。 1962年(昭和37年) - 全日空による沖縄線開設に伴い、CIQを有する税関空港として指定を受ける。第10管区海上保安本部の航空基地が設置される。 1964年(昭和39年) - 1967年(昭和42年) - 空港拡張整備工事が行われる。 1966年(昭和41年)9月18日 - 全日空機鹿児島空港オーバーラン事故が発生。 1968年(昭和43年)6月 - 様々な調査・検討を踏まえて、鹿児島県大型空港建設推進協議会において十三塚原に新空港建設の決定がなされた。鴨池空港の滑走路はオーバーラン部分を含めて1200mであり、実質1080mと短い上、北側には進入表面限界ぎりぎりの高さで県立体育館があり、南側には1m余りの護岸があり、パイロットにとって大きな負担となっていた。また、滑走路東側には農耕地があり、正規のルート (護岸沿いに歩くルート) を通らず、滑走路を横切って近道をする農民その他が発生し、航空機の運航に支障を来すことがあった。さらには交通量の増加に伴い、滑走路の延長と大型機の運航が検討されたが、最大で1720m (オーバーラン部分120mを含む) が限界であることや環境面などの観点から移転が決断された。 同年の暮れにターミナル・レーダー管制業務が運用開始。 1970年(昭和45年)3月 - 総工費58億円にて鹿児島県により新空港建設着工。
※この「鹿児島市鴨池時代の鹿児島空港」の解説は、「鹿児島空港」の解説の一部です。
「鹿児島市鴨池時代の鹿児島空港」を含む「鹿児島空港」の記事については、「鹿児島空港」の概要を参照ください。
- 鹿児島市鴨池時代の鹿児島空港のページへのリンク