鹿児島方面の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
まだ戦争の帰趨が覚束なかった2月末、政府は鹿児島の人心を収攬し、薩軍の本拠地を衝くために旧藩の国父であった島津久光に元老院議官柳原前光を勅使として、兵士千数百名とともに派遣し、3月7日に鹿児島に到着した。しかし、久光は薩軍に荷担することはしないが、旧主の恩顧を以てしても効がないとした。 勅使らは中原らを出獄させ、弾薬製作所・砲台を破壊し、火薬・弾薬を没収して引き揚げた。これにより薩摩軍はその後の戦闘に大きな支障をきたすことになる。 熊本城の包囲が解けた4月23日、政府は参軍川村純義海軍中将を総司令官として別働第1旅団(旅団長高島鞆之助)・別働第3旅団2個大隊(田辺良顕中佐)を主力とする陸海軍混成軍を鹿児島に派遣した。しかし、27日に上陸して本営を設けた川村参軍は情勢を判断して増援を求めた。そこで政府は新たに第4旅団(曾我祐準少将)・別働第5旅団(大山巌少将)1個大隊を派遣した。川村参軍が最初に着手したのは市民生活の安定で、仁礼景通大佐を仮の県令として警察業務を代行させ、逃散してしまった県官の逮捕・査明等を行わせた。5月3日になると、新県令岩村通俊が赴任し、西郷に告諭書を送った。
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