鷗外研究への貢献
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杏奴は、鷗外の子供4人の中で、長男於菟に次いで父の回想記を著した。『明星』の後継誌『冬柏』(とうはく。与謝野寛・晶子が主宰)に「晩年の父」と「思出」を相次いで発表し、1936年(昭和11年)に「母から聞いた話」と併せて『晩年の父』を刊行した。同書で、1888年(明治21年)に4年間の留学を終えた鷗外を追うようにドイツ人女性が来日していたことを於菟に次いで紹介した(1890年(明治23年)に鷗外の小説『舞姫』が発表されたときから世間に知られておらず、於菟が祖母から聞いた話として公表していた)。また、日露戦争出征中に鷗外が激戦地の南山を舞台につくった『扣鈕』(ぼたん)の一節「こがね髪ゆらぎし少女」を、そのドイツ人女性ではないかとし、その女性と鷗外が長い間文通をしていたこと、死期を悟った鷗外が妻に女性の写真と手紙の束とを焼かせたこと等を公表した。 もっとも、鷗外の妹小金井喜美子は、回想記で杏奴の行為(秘密の暴露)を、たしなめながら、鷗外を追ってきたドイツ人女性を「路傍の花」と表現した。後年杏奴は、エッセイで「亡父が、独逸留学生時代の恋人を、生涯、どうしても忘れ去ることの出来ないほど、深く、愛していたという事実に心付いたのは、私が二十歳を過ぎた頃であった」と書いた。いずれにせよ、於菟と杏奴により、鷗外を追ってきたドイツ人女性の存在などが明らかにされたことは、鷗外研究の大きな転機になった。かつて『森鷗外』(1932年)を刊行した木下杢太郎は、次のように記した。原稿を執筆していたとき「先生の創作、随筆を読んだあとに、いつも諦めの心に似る寂しい感情の湧起すると云ふことを注意しました。その何故であるかは当時深く追究して見ませんでしたが、其後森家の方々が先生に関して書かれるものを見るにつけ、少しずつ其所因が理解せられるやうに思はれたのです。」 晩年の杏奴は、鷗外を主人公にしたテレビドラマ『獅子のごとく』(TBS、1978年)が放送されたこともあり、全国各地で講演などをした。 なお、2004年(平成16年)11月5日、『朝日新聞』朝刊の一面トップに、杏奴の遺品から鷗外の書簡100余通が発見されたと報じられた。遺品には、トラック一台分の古書のほか、衣装入れのクリアケースに書簡類があった。書簡の多くは全集に収録されていたものの、現物がはじめて公開された。また、杏奴が『晩年の父』で「女学校の入学試験の時二人で勉強した地理や歴史の抜書を製本したもの」と記述した鷗外手作りの教材も公開された。
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