鴛鴨松平家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 00:35 UTC 版)
松平親光は鴛鴨城主(現在の愛知県豊田市鴛鴨町)を務めたとされ、子孫を称する鴛鴨松平家(おしかもまつだいらけ。「押鴨松平家」とも)の系統がある。鴛鴨で伝えられるところは以下の通り。 岩津城主松平信光は応仁2年(1468年)に矢作川の対岸に位置する鴛鴨城を攻略し、子の親光を城主として入れた。親光のあとは親康、親久、忠久と続いた。 永禄6年(1563年)、上野城(現在の豊田市上郷町)の酒井忠尚が家康に反旗を翻した(三河一向一揆に与したとも、別個の動きともされる)のに対して、鴛鴨城は家康方の拠点となった。4代目の松平忠久は家康の命によって酒井正親(雅楽頭)に附属されて西尾城(現在の西尾市)に移り、永禄8年(1565年)に3代目の親久が死去したために鴛鴨城は廃城となったという。鴛鴨松平家の子孫は酒井雅楽頭家の家老として続いた。鴛鴨城跡には、1915年(大正4年)に建てられた石碑があり、文字は親光の15代孫にあたる松平親康の筆になるものである。 鴛鴨の隣松寺の裏手には「鴛鴨松平氏墓所」がある。「鴛鴨松平氏墓所」には「鴛鴨松平氏先塋之碑」が建てられ、忠久の娘である於美津(東条松平家忠の妻で、松平忠吉の養母になった)の墓や、榊原清長・榊原長政(それぞれ榊原康政の祖父・父)の墓がある。長政の妻は松平親康の娘とされ、康政はその所生とされている(ただし『寛政譜』では、榊原長政の妻・康政の母は「道家氏の女」とある)。
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