高橋秀山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/01 18:00 UTC 版)
高橋 秀山(たかはし しゅうざん、1892年3月20日 - 1978年1月20日)は、日本の柔道家(講道館9段)。
注釈
- ^ 1918年12月に大学令が公布されると、当時の忽滑谷快天学長が革新的立場から大学への昇格を訴え、これに呼応する形で1922年11月3日の開校40周年記念大会で学生らによって大学への昇格が決議された[4][5]。さらに共鳴した学生・教職員を巻き込んだ大きな運動となり、最後には反対的立場であった宗務院もこれを認めざるを得なくなったという。1924年3月30日に文部省に大学設立認可を申請し、翌25年3月30日にこれが認可されて一連の騒動は収束した。
- ^ 厳密には少し遅れて三船久蔵から九州の河辺中学校も紹介されたが、新潟県の方が郷里の秋田県に近い事、既に新発田中学校に赴任する事で父母の許可を得ていた事からこれを断り、しぶしぶながら三船も許してくれたという[4]。
- ^ 当時の日大第三中学校柔道部は全国有数の強豪校として知られ、翌10月の第6回明治神宮大会(中等学校の部)では優勝している。
- ^ この時に高橋と同じく9段へ昇段したのは、鯨岡喬、古沢勘兵衛、山中良一、林岩三、大島耐二の諸氏。
出典
- ^ a b 工藤雷介 (1965年12月1日). “八段 高橋秀山”. 柔道名鑑、38頁 (柔道名鑑刊行会)
- ^ a b c d e f g h i j k 斉藤庄衛 (1978年3月1日). “高橋秀山先生を偲ぶ”. 機関誌「柔道」(1978年3月号)、40頁 (財団法人講道館)
- ^ a b c d e f 山木福松 (1968年7月1日). “新九段の横顔”. 機関誌「柔道」(1968年7月号)、21頁 (財団法人講道館)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 高橋秀山 (1967年5月1日). “汗のあと、涙のあと -汗と涙の思いで-”. 機関誌「柔道」(1967年5月号)、38-39頁 (財団法人講道館)
- ^ 長瀨光仁 (2015年). “大学昇格90周年記念展 ~「駒澤大学」のはじまり~”. 駒澤大学公式ホームページ (駒澤大学禅文化歴史博物館)
- ^ 野間清治 (1934年11月25日). “柔道六段”. 昭和天覧試合:皇太子殿下御誕生奉祝、843頁 (大日本雄弁会講談社)
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