高松市成立
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明治維新を経て成立した日本の新政府は、それまでの幕藩体制の影響が根強く残る地方の権力を弱体化させて強力な中央集権体制を確立させようとしていた。その地方統治機構としてまず1872年11月10日(明治5年10月10日)に大区小区制が施行され、各府県下に大区、その下に小区が設置される。この大区の名称は数字であり、なおかつ府県単位であったために香川県のように合併・分離を繰り返す県の場合、度々名称が変わった。名東県と合併した1873年(明治6年)には高松は第18大区に属した。1878年(明治11年)7月22日、大区小区制に替わって地方三新法として郡区町村編制法が成立し、大都市とそれに準ずる都市には区、それ以外には大区小区制の中では名目上の存在に過ぎなかった郡を設置し、高松は香川郡に属してその郡役所が置かれた。 そして、その郡区町村編制法に替わる制度として1888年(明治21年)4月17日、市制の制度が定められた。この制度が開始された当初から高松は人口要件など市制の条件を満たし全国40都市と共に内務省から指定されていたが、1889年(明治22年)4月1日に最初に市制を敷いた31都市中に高松は含まれていなかった。そのころこの地域の行政といえば香川県成立直後の混乱期であり、関係者の調整・協議が整わないまま最初の制度施行には間に合わなかったという経緯がある。 最初の制度施行から8ヵ月後の同年12月26日には全国20府県の知事とともに初代香川県知事林董が更迭され新知事柴原和が赴任。内務大臣に対する市制施行の願いをこの新知事に上申し、新知事就任から2日後の12月28日、香川県下町村の町村制とともに高松の市制施行の予定日が決定し、その旨布達があった。 翌1890年(明治23年)2月15日、高松は市制を施行し高松市が成立する。最初の市制の制度施行から遅れることおよそ1年、中国四国地方では最も遅く全国で40番目の市となった。初代市役所は北古馬場町の福善寺を間借りしての開庁となった。市制施行当時の人口は3万3546人、戸数は6356戸、面積は2.58km2。 市制施行に際して高松市となった町・村 旧城下町(計59町)塩屋町、築地町、新塩屋町、井口町、新通町、福田町、古馬場町、片原町、今新町、大工町、桶屋町、御坊町、百間町、北古馬場町、七十間町、野方町、西通町、西浜町、木蔵町、西新町、丸亀町、外磨屋町、南紺屋町、古新町、兵庫町、一番丁、二番丁、三番丁、四番丁、五番丁、六番丁、七番丁、八番丁、九番丁、十番丁、天神前、田町、東瓦町、西瓦町、新瓦町、北亀井町、南亀井町、旅籠町、中新町、南新町、南鍛冶屋町、内町、浜ノ丁、鶴屋町、本町、内磨屋町、下横町、上横町、東浜町、新材木町、通町、北浜材木町、工町、魚屋町 町・村東浜村の一部(通称:十番長屋、瓦焼)、中ノ村の一部(通称:樋ノ上) 市制に際して高松市の一部となった東浜村と中ノ村の各一部はしばらくは正式な町名が与えられず、通称地名である十番長屋、瓦焼、樋ノ上と呼ばれていた。その後、1914年(大正3年)にそれぞれ八坂町、南瓦町(現・常磐町二丁目付近)、東田町という正式町名が与えられた。
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