駐日領事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/20 16:27 UTC 版)
「ヨシフ・ゴシケーヴィチ」の記事における「駐日領事」の解説
1858年10月24日、妻と母、宣教師イワン・マホフ、医師ゼレンスキーなどを伴ない、シベリアを経て、軍艦ジギット号で箱館(現・函館市)に着任。当初は実行寺を仮領事館とするが、1860年、現在の函館ハリストス正教会敷地内に領事館を建設する。箱館奉行竹内保徳・村垣範正らと交流し領事任務に従事する一方、駐在武官とは折り合いが悪く、ナジモフ海軍大尉を帰国させたりしている。 1861年に起きたポサードニク号(艦長:ニコライ・ビリリョフ海軍中尉)による対馬占領事件の際にも、暴走しがちな海軍の方針を横目に、幕府側との冷静な対応に努め、カウンターパートである外国奉行の村垣や小栗忠順と交渉。ポサードニク号を対馬から退去させることを約した。その後、老中安藤信正の依頼を受けた英国公使ラザフォード・オールコックらが介入の姿勢を見せたことで、ロシア海軍の作戦は完全に失敗。ビリリョフもゴシケーヴィチの説得に応じ、対馬を退去した。同年総領事に昇格。 その後も主に箱館の領事館に滞在し、日本に関する情報を本国外務省へ定期的に送る一方、サハリン領有を目指して調査・日本との交渉を行うが、日露雑居地であったサハリンの領有問題はゴシケーヴィチ時代には解決しなかった(1875年の樺太・千島交換条約で決着)。1862年9月20日(文久2年閏8月9日)にはロシア人としては初めて将軍徳川家茂に謁見を許される。しかし、この頃から任務への疲れや相変わらずの駐在武官との対立などもあり、しきりに外務省に対して離任願・本国帰還を求めるようになっていく。この間にも外国奉行柴田剛中と横浜鎖港問題で交渉。1864年6月には帰国許可が出るが、1865年2月には箱館領事館の火災焼失などもあり、同年4月ようやく後任に領事館運営を托して帰国の途についた。
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