飯田市の生活
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1945年郷里の飯田市に疎開し、早稲田大学教授を辞任、翌1946年帰京。1952年から青山学院大学で文学論、比較文学論を講じる。1956年に岸田国士命日の法要に出かける際に脳溢血の発作で倒れ、右半身不随となって再び飯田市に帰郷し、愛宕神社境内に居を構える。1959年に飯田市にて古希祝賀会、記念講演会が催され、また同市風越山頂に句碑建立され、「秋風や狗賓の山に骨を埋む」の句が刻まれた。同年黄眠会などによる雑誌『古酒』創刊、庭内にも句碑建立。1962年に飯田市りんご並木に、谷口吉郎設計、齋藤磯雄撰による詩碑建立、「咒文の周圍」最終聯が刻まれた。1967年『随筆集 涓滴』出版記念会が催され、市立飯田図書館で全著作展示館が開かれた。1971年に飯田市自宅にて没す。 1989年に飯田市美術博物館の付帯施設として、愛宕神社内にあった自宅を復元した日夏耿之介記念館が開館、旧蔵書9500冊、絵画、軸類150点、来簡集1500通が寄贈された。庭園には自然石の句碑「水鶏ゆくやこの日宋研の塵を滌ふ」が建っている。 翻訳者としては、壮麗な雅語を駆使してワイルドやポーを日本語に移し替え、三島由紀夫や澁澤龍彦に多大な影響を与えた。また、自身を「頑迷固牢なる徳川文人型旧詩人」と称し、書画骨董、多くの蔵書に囲まれて暮らし、部屋には聖母マリアの絵が掛けられていた。篆刻を嗜み、『風塵静寂文』見返しページで印影18顆を纏めていて、著作の検印にも使っていた。 木下杢太郎が『スバル』掲載の頃から評価し、長く交友を持ち、医師として発疹の治療も受けた。
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