風船爆弾開発に携わった地方や施設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:07 UTC 版)
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陸軍兵器行政本部造兵部 - ふ号兵器生産本部 第9陸軍技術研究所(登戸研究所) - ふ号兵器研究開発 国産科学工業株式会社 - ふ号兵器開発製造 埼玉県(小川和紙 "細川紙")福岡県(八女和紙)、愛媛県(伊予和紙)、高知県(土佐和紙)鳥取県(因州和紙)、石川県(加賀二俣和紙)、岐阜県(美濃和紙) - 気球紙用原紙生産指定地 無誘導の兵器であったが、自動的に高度を維持する装置は必須であった。川崎の東芝富士見町工場で製造と開発が行われていた。これにはアネロイド気圧計の原理を応用した高度保持装置が考案され、三〇七航法装置と呼ばれる。発射されると気球からは徐々に水素ガスが抜け、気球の高度は低下する。高度が低下すると気圧の変化で「空盒」と呼ばれる部品が縮み、電熱線に電流が流れる。バラスト嚢を吊している麻紐が焼き切られ、気球は軽くなりふたたび高度を上げる。これを50時間、約二昼夜くり返して落下するしくみであった。 気球を天井から吊り下げて行う満球テスト(水素ガスを注入して漏洩を検査する)のために天井が高い建物が必要とされたため、日本劇場の他、東京では東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館で、名古屋でも東海中学校・高等学校の講堂で作られた。他にも毒ガスの製造施設があり機密性の高かった瀬戸内海の大久野島などでも製作が行われた。作業にあたって動員されたのは女子学生であった。脚本家・作家の向田邦子も、学生だった当時、旋盤工として部品の製作に動員されたことを著書に記している。吉村昭はこれに加えて芸者が参加しているという話を耳にしている。既に座敷遊びをするような客が少なくなり、三味線を弾くこともなくなっていたのである。糊に混入されている防腐剤の影響で指の間がただれ、また作業者には疲労回復のためヒロポンが渡されたという証言も残る。軍需工場で長時間勤務する工員へのヒロポン配給は、普通に行われていた。製造中の事故により6名の死者を出している。また関西では天理研究会が開いた奈良県北葛城郡竹ノ内部落の教団本部跡地(1938年に教団幹部が検挙された後閉鎖され、警察が管理していたが、村のボスが買い取った)でも製造が行われた。
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