音楽・演劇学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 17:02 UTC 版)
「パリ国立高等音楽・舞踊学校」の記事における「音楽・演劇学校」の解説
サレット (1795 - 1815) が初代学長に就任し、1801年に図書館の設立、1803年にはローマ賞音楽部門が設立された。またサレットは、音楽院における演劇部門と舞踊部門の設立を進め、1806年に 同校は音楽・演劇学校 (Conservatoire de musique et de déclamation) と改編された(第二次世界大戦後、この演劇部門はフランス国立高等演劇学校へと改編)。また同年、作曲家でヴァイオリニスト、指揮者のフランソワ・アントワーヌ・アブネックの手によって、音楽院学生によるオーケストラ、パリ音楽院管弦楽団(L'orchestre de la société des concerts du conservatoire、後のパリ管弦楽団)が創設された。サレットの後、フランシス・ペルヌ (1815 - 1822) の時代を経て、第三代学長に就任したルイジ・ケルビーニ (1822 - 1842) によって、入学試験、卒業試験の制度が配備され、新たなクラスとして、声楽伴奏 (1822)、女性ピアノ (1822)、男性ピアノ (1827)、ハープ (1825)、コントラバス (1827)、トランペット (1833)、ピストンホルン (1833)、トロンボーン (1836) などが整備され、器楽科が充実した。この時代、エクトル・ベルリオーズらが輩出された。 第四代目学長のフランソワ・オーベール (1842 - 1871) の時代、ジャック・アレヴィ(作曲)、ピエール・バイヨ(ヴァイオリン)、ジルベール・デュプレ(声楽)、ロール・サンティ=ダモロー(声楽)、アンリ・エルツ(ピアノ)、アントワーヌ=フランソワ・マルモンテル(ピアノ)、ルイーズ・ファランク(ピアノ)らが教授として活躍し、学生からはセザール・フランク、サラ・ベルナールなどが輩出された。 第五代学長アンブロワーズ・トマ (1871 - 1896)、第六代目学長テオドール・デュボワ (1896 - 1905) の時代の教授としては、フランク(オルガン)、シャルル=マリー・ヴィドール(オルガン)、アレクサンドル・ギルマン(オルガン)、ルイ・ディエメ(ピアノ)、エドゥアール・リスラー(ピアノ)、ラウール・プーニョ(ピアノ)、マルタン・マルシック(ヴァイオリン)、ガブリエル・フォーレ(作曲)、アンドレ・ジェダルジュ(対位法、フーガ)らが挙げられる。エルネスト・ギローのクラスからはクロード・ドビュッシーらが、フォーレのクラスからは、シャルル・ケクラン、ナディア・ブーランジェらが、ヴィドールのクラスからはモーリス・ラヴェルなどの逸材が輩出され、学校は円熟期を迎えたが、その一方、この頃の舞台芸術に寄った教育体制への反発から、ヴァンサン・ダンディらによってスコラ・カントルムが設立され (1894)、後にはやはり同校の体制への反発からエコールノルマル音楽院が設立された (1914)。またローマ賞を巡った『ラヴェル事件』がスキャンダルとなり、デュボワが学長の職を退く結果となった。 デュボアの辞職を受けて第七代目学長の座についたフォーレ (1905 - 1920) は、指揮 (1914)、ティンパニ (1914)、マイムなどのクラスの充実の他、対位法やフーガのクラスを設立して作曲科と音楽書法科の分離を行ったり、作曲法や和声法を学ぶ生徒に対して音楽史を必修科目としたり、声楽のカリキュラムを変更ならびに充実させ、合奏や合唱を重視するなど、音楽院の抜本的な教育制度改革を行った。フォーレによって和声の教授に任命されたブーランジェのクラスからはピエール・アンリらが輩出され、また、ソルフェージュクラスの教授、後に対位法、フーガのクラスの教授となったノエル・ギャロンのクラスからは、モーリス・デュリュフレ 、オリヴィエ・メシアン 、アンリ・デュティーユなどが輩出された。作曲科教授となったヴィドールのクラスからはアルテュール・オネゲルらが、ヴィドールの後を受けて作曲科、管弦楽法クラスの教授となったポール・デュカスのクラスからは、ダリウス・ミヨーらが輩出された。
※この「音楽・演劇学校」の解説は、「パリ国立高等音楽・舞踊学校」の解説の一部です。
「音楽・演劇学校」を含む「パリ国立高等音楽・舞踊学校」の記事については、「パリ国立高等音楽・舞踊学校」の概要を参照ください。
- 音楽演劇学校のページへのリンク